【ヴィクトリア女王ってどんな人?】大英帝国を築き上げた美しき女王の生涯

イギリスの歴史

大英帝国の最盛期を築き上げた美しき女性君主、ヴィクトリア女王。美しい肖像画で知られる彼女ですが、一体何をした人物だったのでしょうか。この記事では、ヴィクトリア女王とは何者なのか、彼女が歩んだ道をご紹介していきます。

この記事のポイント
  • 歴代イギリス国王の中で、エリザベス2世に続いて2番目の在位を誇る女王
  • 好きな男性と結婚し、4男5女の子宝に恵まれ政治手腕にも長けていた
  • 政治・経済だけでなく、文化や技術面でも優れた成果をあげ「大英帝国」を築き上げた

なぜヴィクトリアは女王になったのか

ヴィクトリア女王は、国王ジョージ3世の四男エドワードの娘です。しかし父エドワードは、彼女の生後間もなく亡くなってしまいました。亡き父エドワードの上には3人の兄がいたわけですが、王位継承権のあった3人の叔父すなわちジョージ4世、フレデリック・ヨーク公、ウィリアム4世には生き残った嫡出子がいなかったのです。

そういうわけで必然的に、72歳で伯父ウィリアム4世が亡くなったあと、王位継承順位が一位だったヴィクトリアが後を継ぐことになりました。

ヴィクトリア女王の家系図

18歳にして英国女王

1837年の叔父ウィリアム4世が亡くなり、彼女は18歳で女王になりました

ヴィクトリア女王といえば有名なのは、英国の産業革新や経済発展でしょう。彼女が亡くなったとき、英国は「太陽が沈まない帝国」と呼ばれていました。 帝国とは、複数の地域や民族に対して君臨し、大規模で歴史にも残る国家のことです。この頃英国は世界各地に植民地をもっていたのです。

明るく活発だったヴィクトリア女王。デイヴィッド・ウィルキーが描いたこの絵画には、18歳とは思えない毅然とした態度でのぞむ姿が描かれています。家庭教師から教育を受けた彼女は、生来の日記作家で、生涯を通じて定期的に日記をつけていたそうです。

女王に大きな影響を与えた2人の男性

在位初期にヴィクトリアは、2人の男性から影響を受けましたひとりは当時首相をつとめていたメルバーンもうひとりはヴィクトリアの大きな支えとなる夫アルバートです。当時のイギリスはというと産業革命は頭打ち、経済的にはどん底であり、街には失業者が溢れかえっていました。

そんな大変な時期に、政治の舵取りを教えてくれたのがメルバーン首相です。40歳年上のメルバーン首相は性格も温厚で、父を亡くした女王にとっては父親のような存在だった、といわれています。

ヴィクトリア女王は1840年にアルバートと結婚し、4男5女に恵まれました。仲睦ましい女王一家の複製版画は、イギリス中の家庭で飾られたといいます。アルバートはイギリスに到着すると、国の政治的慣習や歴史だけでなく芸術、科学、貿易や産業にも積極的に関心を示しました

夫の協力を得て

良き夫であり、良き助言者でもあったアルバート。政界のなかで誰が強者か、狡猾かを見分ける才もあり、いろんな方面からヴィクトリアをサポートしていきました。「ドイツ男」と揶揄されたアルバートが一躍脚光を浴びたのは1851年におこなわれた万国博覧会です。

目玉はイギリスの産業技術の結晶ともいえる会場、クリスタル・パレス。彼が美術家とタッグを組んでつくったこの館は大英帝国のはじまりの象徴でもあり、この後にイギリスはアジア・アフリカ諸国を次々と植民地として取り込んでいくことになります。

ヴィクトリア時代の功績

万博が終わると、英国は第二次アヘン戦争で中国を、セポイの反乱を鎮圧してインドを勢力下におきます。またクリミア戦争では、地中海へと南下しようとしたロシアを倒しました。

エリザベス1世のときにはスペインから自国を守ることしかできなかった英国ですが、ここにようやく『7つの海を支配する大英帝国』が出来上がったのでした。どれほどのものだったか数字でみるとわかりやすいのですが、ヴィクトリア時代と呼ばれる64年の間に、

  • 領土を10倍以上に拡大させ
  • 地球の全陸地面積の4分の1世界全人口の4分の1(4億人)を支配し、
  • 史上最大の帝国となったのです

大英帝国を維持し拡大するために英国は世界各地で頻繁に戦争を行っていました。ヴィクトリア朝全期を通じてイギリスが戦争をしていない時期は稀で、64年間にイギリス軍が全く戦闘しなかった時期は2年だけだったといわれています。

女王の晩年

ヴィクトリア女王の夫アルバートは、家族が見守る中、42歳にして崩御しました。女王の悲しみは深く、以後40年間を女王は喪服で過ごすことになります。大きな支えであり愛しい夫を失ったヴィクトリアその悲しみは理解されず、ロンドンの社交界や表舞台から忽然と姿を消した女王に批判の声が集まりました。

職務を放棄しているかのように思われたヴィクトリア女王でしたが、彼女は毎日大臣たちからの書簡に目を通し、必要な書類には署名をして送り返していたといいます。1871年皇太子のエドワード王子 (のちのエドワード7世)が父アルバートと同じ病気にかかり、回復したときは国をあげてお祝い。それをきっかけとしてヴィクトリア女王は表に舞い戻り、人気はあがっていったのでした。

晩年、ヴィクトリアは「大英帝国の象徴」となります。老衰で政治的な活動は少なくなっていき81歳でその生涯を閉じました。

まとめ

ヴィクトリア女王による63年7か月の治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、政治・経済のみならず、文化・技術面でも優れた成果を上げました。7つの海を支配したと形容される通り、この時代、イギリスは世界各地を植民地化して、一大植民地帝国を築き上げたことでも有名です。

ヴィクトリア女王の後継は、息子のエドワード7世でした。女王は、ウィンザーに埋葬されました。彼女が最後の埋葬地として建てたフログモア陵です。ちなみに陵墓の扉の上には、ヴィクトリア女王の言葉が刻まれています。劣勢のときでも敗北の可能性は考える必要がないでしょうそのようなものは存在しませんと言い放った女王らしい言葉です。

さようなら愛する人たち、わたしはここで休みます。

そしてまた、キリストと共に立ち上がるでしょう。

英国の歴史シリーズ

この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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