英雄フランシスドレーク卿【エリザベス1世お気に入りの海賊】

イギリスの歴史

海賊なのに「英雄」とされた海賊船長。ときの女王エリザベス1世から出資を受け、西インド諸島のスペイン船や町を襲った海賊フランシス・ドレーク。金銀を運ぶラバ隊を襲撃したりスペイン船を攻撃したりと信じられないほどの金銀財宝を手に入れました

イングランド人として初めて世界一周を達成し、アルマダの海戦では艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破するなど、様々な功績をたてた人物でもあります。この記事では、ヴァージンクイーンエリザベス女王のお気に入り 海賊フランシス・ドレークの人生をみていきます

フランシス・ドレーク卿

偉業を成すのも小さな一歩から。

フランシス・ドレーク卿はエリザベス1世のお気に入りの海賊でした。ヴァージンクイーンとも呼ばれたエリザベスは、現在のベンチャー投資家がシリコンバレーのスタートアップ企業に投資するようにイングランドの海賊に投資していたのです。

1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始したドレーク1573年にはパナマからノンブレ・デ・ディオス (元メキシコ) に金銀を運ぶラバ隊を襲撃して大量の財宝を手に入れました

スペイン船から、大量の財宝を奪い取る

エリザベス女王の天敵であったスペイン。彼は大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリやペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪うなど、『まさに海賊』といわんばかりの行為を繰り返しました

その中にはスペイン王の財宝を満載したカカフエゴ号などが含まれていました。カカフエゴ号には銀26トン、金80ポンド、貨幣と装飾品13箱など、合計20万ポンド相当が積載されていたとされています。

ドレーク卿の功績

ただ彼の凄いところは「海賊行為で莫大な富を得た」だけではありません

彼は上にある地図のとおり、太平洋を横断してモルッカ諸島に、さらにインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国し、フェルディナンド・マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成しました。さらにこの途中、1578年に『ホーン岬』と『ドレーク海峡』を発見しています。

海賊とはいっても完全な破天荒だったわけでもなく、ドレークは『イングランド王室』と上手に結びついていました1580年9月、生き残ったのは5隻のうち1隻だけ。唯一無事だったゴールデン・ハインド号はイングランドプリマス港に帰港し、女王エリザベス1世を含む出資者達に4700%とも言われる配当金を支払いました

海賊なのに、勲章をもらう

イングランド王室の取り分は30万ポンドを越えこの臨時収入で王室は溜まっていた債務を全て清算。そればかりか国策会社のレヴァント会社に増資することもでき、これは後の『東インド会社設立の基礎』となったといわれています。

エリザベス1世からしてみたら、天敵スペインに多大なダメージを負わせ、さらに投資に成功して万々歳なわけです。ドレークはこの功績により、イギリス海軍の中将に任命されると同時に叙勲(ナイトの称号)を受けました。

ドレークの最後

1588年のアルマダの海戦では、実際に艦隊の指揮を執っていたのはドレークでした。『火のついた船を敵艦隊に送り込む』という海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させたのです。ドレークの船乗りとしての経歴は50代になるまで続き、スペイン領アメリカへの度重なる襲撃と攻撃の失敗を経て、パナマのポルトベロ沖へ停泊中に、赤痢にかかり亡くなりました

エリザベス女王が彼に与えた紋章には、銀色の波を挟んで、上下に二つの銀色に輝く星が描かれていました。紋章にはドレークが、北極と南極の間を通った世界一周の航路がデザインされていたのです。

まとめ

彼の経歴は完全な海賊行為と『合法化された海賊行為』の曖昧な線を象徴している、といわれています。海賊は違法行為として絞首刑に処されるか、公的な称賛を得るのか、それはほんの紙切れ一枚の違いしかなく、ドレークの場合は後者でした。

ドレークの遺体は鉛の棺に入れられて、ポルトベロ付近に水葬されました。彼が海へ消えたのは何世紀もの前のことですが、いまもダイバーたちは棺を探しているそうです。

この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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