【エリザベス1世とメアリー・ステュアート】運命を分つふたりの女王

イギリスの歴史

イングランド女王エリザベス1世と、スコットランド女王メアリー・ステュアートは、歴史のなかで最もスキャンダラスなライバルであったといわれています。イングランドに安寧をもたらしたエリザベスと、魅力的でロマンティックな恋を重ね国を混乱に陥れた女王メアリー。この記事では、あまりに違うふたりの女王をご紹介していきます。

この記事のポイント
  • 一時は庶子の身分に落とされ、つつましやかな少女時代を送ったエリザベス
  • 生まれながらの「女王」であり、身分を活かして好き放題生きたメアリー
  • 同い年ながら、ふたりの最後は全く違うものだった 

庶子として育ったエリザベス

エリザベス1世は、1533年9月7日にグリニッジ宮殿で生まれました。父はあの強欲で知られるヘンリー8世、母は斬首刑に処せられたアン・ブーリン元々王妃の侍女だった母アンは王を虜にしていましたが、宮廷や大衆からは軽蔑されていました。

母が斬首刑に処されると、娘のエリザベスは庶子の身分に落とされます。エリザベスは「ろくでなしの娘」と小馬鹿にされて育ったのです。非嫡出子であると宣言され、父親の目からは冷たく隠されていた子供時代、エリザベスの家庭教師は「ガウンも、ガードルもペチコートもない」とこぼし、お金の無心を訴えたこともありました。のちにイギリスに安寧をもたらすエリザベス1世ですが、元々「王位継承」とは遠いところにいたのです。

生まれた時から女王だったメアリー

反対に生まれながらにして「女王」となったのが、メアリー・ステュアート同じ年の12月8日、スコットランドのリンリトゴー宮殿で誕生しました。その虚弱な乳児は、同じく虚弱であったスコットランド王ジェームズ5世と王妃との間に生まれた「正当な血筋」を持つものでした。

わずか6日で父が亡くなり王位を継いだためメアリーはほとんど生まれた時からスコットランドの女王だったといえるでしょう。彼女は、自分が「正当な英国の王位継承者である」と言い聞かせられて育てられました。ヘンリー7世を祖父に持ち、その身分故乳児のうちにイングランドから求婚されますが、母の配慮で最初の5年間はスコットランドの別の宮殿に身を隠していました。

1548年になるとメアリーは、母の故郷フランスの皇太子の元へ嫁ぎます彼女は夫が早逝するまで、「スコットランド女王」と「フランス王妃」を兼ね、自由気ままに豪華な生活を送りました。

正反対の暮らし

エリザベスの青春時代は主に宮廷以外で本を読んだり、決まった計画を慎ましやかにこなす生活が続きました。一方で「あなたは女王」だと持ち上げられて育ったメアリーは、最も華やかな宮廷のど真ん中を生きてきました。メアリーは、奴隷のような使用人、家庭教師、ペットに囲まれて幼少時代を過ごしました。彼女の宮廷生活には豪華な衣装、ダンスに乗馬や歌のレッスンまで、若きエリザベスが夢みたものが全て揃っていたのです。

メアリーの「女王」としての自覚は物心つく前からともにあり、エリザベスのように疑われたり、試されたりすることもありませんでした。「女王」であるのは彼女にとって当たり前であり、それほど深く考えることなく、あまり価値を感じるものでもありませんでした。

エリザベスの転機

メアリーが宮廷生活を謳歌していたとき、エリザベスにも転機が訪れました義理の母となったキャサリン・パーの口添えで王位継承権を取り戻しイングランド宮廷へ戻れることになったのです。しかし慣れない王室生活のストレスは、逆にエリザベスを苦しめることになります。

1547年にヘンリー8世が亡くなると、エリザベスの異母弟エドワード6世が王位に就きました

この時、エリザベスの王位継承権は3位、父の最後の妻であり本当の母のように慕っていたキャサリンパーの庇護もあり、彼女は比較的穏やかな運命をたどるかに思われました。しかしエドワードが思いがけず早逝してしまったのです。ブラッディメアリーと呼ばれた姉の治世も病気により長くは続かず、エリザベス1世に早々に『玉座』が回ってくることになりました。

運命の分かれ目

ふたりの行手を分けたのは、「女王」としてのあり方でした。

イングランドの王位継承権は自分にあると主張してきたメアリー・ステュアート。しかしフランス王だった夫が亡くなり、スコットランドへ戻るや否や、雲行きが怪しくなっていきます。

早々に恋人と再婚したメアリーでしたが相手に不足を覚えると、新しい恋人と共謀して夫を殺害してしまいます殺害疑惑で満ちた女王に民衆は牙をむきアリーの立場は一転、逮捕されてしまいました。「庶子が統治するべきではない」と散々馬鹿にしていたメアリーですが、御都合主義なのか、なんとか脱獄した彼女が最終的に逃げ込んだのはエリザベスのいるイングランドでした。

女王らの最後

しかしエリザベスはメアリーを再び拘留します。シェフィールド城の堅固な要塞に14年間、そして他の様々な要塞に5年間投獄しました。庇護の元でもメアリーの暴走とは止まらず、イングランドを狙うスペイン王フェリペ2世の陰謀に加担し、エリザベスの殺害計画をたてます。

数十年かくまってきたエリザベスもさすがにかばいきれなくなり、家臣の後押しもあって「処刑」の判断をくだしました。そうして幸運尽きたメアリーは、エリザベス1世の元斬首刑に処せられたのでした。早々に女王になり、若くして王位を剥奪されたメアリーと違い、エリザベス1世はその後45年もの間イギリスを統治し、英国に安寧をもたらした女王として語り継がれることになるのでした。

まとめ

全く異なる2人の女王メアリーとエリザベス。

長年にわたる『イングランド女王の座』をめぐる争いは、1587年にエリザベス1世の命により、メアリー・ステュアートが斬首されることで幕を閉じました

しかし、このいとこ同士による骨肉の争いは、生まれる前に運命づけられていたのでしょうか。人生の最初を謳歌し尽くして天命尽きたメアリー・ステュアート。波乱の子供時代を経て長く女王の座についてエリザベス1世、大器晩成とは彼女のような人生を言うのかもしれません。

 

この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

Naaya Alexisをフォローする
イギリスの歴史
Naaya Alexisをフォローする
「ヒト」から読み解く世界史

コメント

タイトルとURLをコピーしました