1814年、この世を去ったジョセフィーヌ。ナポレオンにその知らせが届いたとき、彼は悲しみのあまり部屋に閉じこもり誰にも会わなかったといいます。1年後エルバ島を脱出した彼が、真っ先に向かったのはジョセフィーヌが亡くなったマルメゾンでした。
それから6年後、ナポレオンはセントヘレナ島で亡くなりますが、最後の言葉は「フランス、陸軍、ジョセフィーヌ」だったといいます。フランス革命に翻弄されながらも、幸運の波に包まれた女性、この記事ではナポレオンが生涯をかけて愛した女性、ジョセフィーヌについてみていきたいとおもいます。
- フランスの植民地マルティークで貴族の娘として生まれたジョセフィーヌ
- 一度結婚するも、フランス革命の荒波に巻き込まれ夫は処刑
- 聞き上手な姿勢と美しさでナポレオンを虜にし生涯寵愛を受け続けた
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
贅沢すぎる王妃マリー・アントワネットの姿をみて、華やかなヴェルサイユの貴族に憧れた幼少期。フランス革命により数え切れないほどの命が失われた時代、浮き沈みはあれど、幸運の波に翻弄されたひとりの女性、彼女こそがジョセフィーヌです。
フランスで学を身につけ
フランスの植民地 マルティニーク島で、生まれ育ったジョセフィーヌ。貴族の長女として生まれた彼女は、当時ローズと呼ばれていました。そこまで裕福ではありませんでしたが、10歳のときにフランスの修道院に送られ、行儀作法と教養を学びます。
当時のフランスでは、貴族の娘は年頃になると家柄に見合う男性と結婚する慣しがあり、結婚はお互いにとって一人前になったとお墨付きをもらえるような意味合いがありました。ジョセフィーヌにも16歳のときに縁談がもちあがり、貴族であった19歳のアレクサンドル・ド・ボハルネと結婚するために父とフランスに渡りました。
最初の結婚はうまくいかず
結婚した2人はパリ郊外に定住し、ジョセフィーヌは2人の子どもを授かりました。母となったジョセフィーヌは愛くるしい子供に囲まれ幸せでしたが、旦那との関係はよくなかったといわれています。というのも、フランス宮廷がそうであったように、結婚して夫婦仲が良いのはみっともないとされ、夫だけでなく妻でさえ愛人を持つのも珍しくなかったのです。
愛人が彼女を苦しめ継母には「田舎者」いわれ、肩身がせまかった結婚生活。耐え切れなくなったジョセフィーヌは、1785年に子供をつれて夫の元を離れることになりました。経済的にこまったジョセフィーヌは生活費を払うために宝石の一部を売り、一時はマルティニーク島に戻り2年間ほど滞在しています。
フランス革命に翻弄されて
そして、1789年にパリでフランス革命が勃発します。「貴族を倒す、王政を倒す、貴族もおれたちも平等な世の中をつくるんだ」虐げられていた第三身分 (平民) の人々が立ち上がり、貴族であるジョセフィーヌもその波に巻き込まれていくこととなります。この騒動はマルティニーク島にも急速に波及し、ジョセフィーヌは娘と共にパリに戻ることを決意しました。
翌年ルイ16世はギロチン処刑、妃マリー・アントワネットも同じく処刑されると、事態はますます悪化していきます。当時王政に変わり、民衆を率いていたのは恐怖政治と呼ばれた国民公会でした。ジョセフィーヌの夫はライン地方の防衛を任されていましたが、「反革命分子」の容疑をかけられ、時の政府には逆えず、夫アレクサンドルは処刑されてしまいました。
ナポレオンとの出会い
夫アレクサンドルの処刑からまもなく、国民公会を主導していたロベス・ピエールが処刑され恐怖政治は幕を閉じます。8月初めに解放されたジョセフィーヌは、パリにとどまることを選択しました。
彼女が将来を期待された若き将軍、ナポレオン・ボナパルトに出会ったのは1795年秋のことでした。出会って早々、ナポレオンは彼女にすっかり夢中になり、彼女を『ジョセフィーヌ』と呼びました。しかしジョセフィーヌは彼より6歳年上で、2人の子供の母親でもありました。貴族社会をみていた彼女にとって、野蛮な若き将軍にそれほど熱心なようにはみえなかったといわれています。
利害の一致
恐怖政治が終わったフランスの社交場は、貴族化した革命家と金で肥え太った事業家でにぎわっていました。決して裕福ではなかったジョセフィーヌですが、優しい笑顔で悩み多き男性や、人生をなげく老人など、色々な人の声に耳をかたむけていたといいます。
ナポレオンとのロマンスの裏には、もちろん利害の一致もありました。ジョセフィーヌが上流社会にこの若き将軍を紹介する一方で、ナポレオンの台頭と経済的安定は彼女に富と名声をもたらしていったのです。
ナポレオンは『ヴァンデミエール将軍』と呼ばれ広く知られるようになり、パラスにかわり国内軍最高司令官となりました。貴族だった実父とは違うけれど、強く逞しい彼にジョセフィーヌの子供も敬意を抱くようになっていきました。そしてナポレオンがイタリア軍の最高司令官に任命されてから7日後、2人は市民パートナーシップのもとで結婚しました。
聞き上手な姿勢を生かして
ナポレオンもジョセフィーヌも個性が強かったために、2人はぶつかり、険悪になることも多くあったといいます。ナポレオンは戦地に遠征で長期不在、しかしジョセフィーヌはパリの社交界に居座ることを好だため会わない日々が続きました。ただ時々遠征の間に見送るなどして、ナポレオンが将軍として軍事的成功をおさめていたため、彼女はパリで贅沢な生活を送ることができました。
ときには物理的な距離が不信をうみ、離婚が差し迫っているように思えました。ジョセフィーヌの浪費家な生活が、結婚生活を破綻させるのではないかという見方もありました。ナポレオンが彼女に会うことを拒否したこともあったそうです。その時ばかりはジョセフィーヌも、そのときばかりは何としても仲直りをしようとしました。話し上手だったジョセフィーヌ、険悪になっても離婚に至ることはありませんでした。
世継ぎ論争
ジョセフィーヌは誰からも好かれていたわけではなく、ナポレオンの親族からは敬遠されていました。とくにナポレオンの母レティシアは、息子より年上の彼女を認めず、ボナパルト家とジョセフィーヌの一家では対立が生じました。ナポレオンは、義理の息子ウジェーヌ (ジョセフィーヌと前の夫の子供) を養子にしようとするなど、家族の絆を深めようとしましたがうまくいかず… ボナパルト家の人々はナポレオンに、
ジョセフィーヌには世継ぎができないのだから、彼女とは別れなさい
と公然と告げたそうです。
ナポレオンは妻ジョセフィーヌにの皇后を戴冠させることにより、家族の圧力から彼女を守り結婚を反古にしないよう動き回ったといいます。しかし帝国が樹立されると、ナポレオン自身も後継ぎを作らなければ、と追い詰められていくようになります。不妊治療も行いましたが、ジョセフィーヌがナポレオンの子を授かることはありませんでした。
別れを決意して
1809年11月30日、ナポレオンはジョセフィーヌに「別れたい」旨を告げました。ジョセフィーヌは動転しましたが、婚姻無効に同意し、12月15日正式な親族会を召集して婚姻解消に至りました。ナポレオンは宣言で、
皇后のことは忘れず、将来のことも私が守る
と約束しました。
ナポレオンはジョセフィーヌを皇后の座からおろしたくはなかったそうですが、後継をつくるためにはそうもいかず、
彼女に私の気持ちを疑わせたくはない。
彼女には常に私を彼女の最愛の友人と見てほしい
と言い、ジョセフィーヌはマルメゾン館に落ち着きました。1810年5月ナポレオンはオーストリアの大公マリー・ルイーズに再婚しましたが、ジョセフィーヌへの手紙を書き続け、彼女を見守り続けていました。その愛情は新妻を嫉妬させるほどだったといいます。
ジョセフィーヌの晩年
公務を終えたジョセフィーヌは、マルメゾン邸宅に情熱をささげるようになりました。1812年4月30日ナポレオンはロシアへ出兵しますが、その前にはよくマルメゾンにやってきたそうです。
しかしそのロシア遠征で大敗を喫したナポレオン、軍事作戦が失敗したフランスに対してヨーロッパの大国が襲いかかりました。1814年の春、帝国は滅び、皇帝ナポレオンはエルバ島に追放され、ジョセフィーヌに会うことはできませんでした。
ジョセフィーヌの最後
¥1814年4月、ジョセフィーヌはマルメゾンに戻りました。
フランスの新国王ルイ18世はボアルネ家 (ジョセフォーヌの実家) と良好な関係を維持。ボアルネ家はロシア皇帝アレクサンドル1世の支持を得て、フランスとロシアの平和的な関係を築くことを約束しました。元フランス王妃とロシア皇帝は、芸術に対する共通の認識と、2人の子供であるウジェーヌとホルテンスに対するロシア国王の尊敬の念から、親密な友情を築いたといいます。社交上手のジョセフィーヌだったからできたことでしょう。
そしてジョセフィーヌがマルメゾンに戻ってから1ヶ月後の1814年5月29日、彼女は結核で亡くなりました。享年51歳、波乱のなかでも幸福に生きた女性でした。その4日後、彼女の葬儀はリールのサンピエール・エ・サンポール教会で行われました。現在でも、お墓の上にある彼女の横臥像を見ることができます。
まとめ
1814年、この世を去ったジョセフィーヌ。ナポレオンにその知らせが届いたとき、彼は悲しみのあまり部屋に閉じこもり誰にも会わなかったといいます。ナポレオンの最後の足掻きともみれたエルバ島の脱出。真っ先に向かったのは彼女が亡くなったマルメゾンでした。そしてその3ヶ月後、彼はフランスから遠く離れたセントヘレナ島へと流されました。そして1821年ナポレオンが死の床についたとき、最後に呼んだ名前は「ジョセフィーヌ」だったといいます。
英雄ナポレオン、若き将軍を導くようにこの世に生きた皇后ジョセフィーヌ。運命に体当たりして、見事に玉砕した彼を天国からどのように見守っていたのでしょうか。革命のなかに生きた2人、時に険悪になることもあれどお互いがいたからこそ、フランスに吹き荒れた革命の嵐を乗り切れたのかもしれません。
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