【エカチェリーナ2世ってどんな人?】夫を組み敷き大女帝となった女性

ロシアの歴史

17、18世紀ロシアのトップに君臨し大女帝と呼ばれたエカチェリーナ。この記事では、この有名なロシアの統治者エカチェリーナ2世とはどんな人物だったのか、知られざる5つのことをご紹介します。

実際は生粋のドイツ人だった

私は声をあげて賞賛し、声をやわらげて咎める。

誰だって褒められれば嬉しいし、けなされれば嫌な気持ちになるもの。

ロシアで最も長い治世をもった女帝、『エカチェリーナ2世』は、貧しい北ドイツの生まれでした。1729年に生まれた彼女のドイツ名は、ソフィー・フォン・アンハルト=ツェルブスト。

1744年、15歳のソフィーはロシア女帝エリザヴェートによって『皇太子妃候補』としてロシアに招れることになります。未婚で子供がいなかったエリザヴェートは、甥のピョートルを後継者に指名し、皇太子を支える聡明な花嫁を探していました。母親の熱心な教育のおかげもあってか、彼女はとてもよい娘に育ち野心にも満ちていました。

そんな彼女は、夫はさておきエリザヴェートの心を掴むことに成功します結婚は1745年8月21日に行われ、この若く聡明な花嫁は、「エカチェリーナ」と名を改めました

夫婦仲は冷え切り?

婚姻は政治的には大成功でありました。しかし夫ピョートルは妃にまったく興味を示さず『幸せな夫婦』とは程遠いものでした。エカチェリーナはロマノフ王朝の世継ぎをつくるためにドイツから嫁いできたわけですが、結局夫婦は子どものいないまま8年が過ぎました

結婚生活に不満があったピョートルと、エカチェリーナはふたりとも不倫をしていたといいます。そして1754年、結婚9年目にしてエカチェリーナは長男パーヴェルを出産しました

 (ロマノフ王朝 エカチェリーナ周辺の家系図)

しかし、実際の父親はエカチェリーナと公然と関係を持っていたセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵ではないかといわれています。いずれにしても真実は闇のなか、女帝エリザヴェータは待ち焦がれた世継ぎに大喜び、問題にもならなかったそうです。

夫と玉座を取り合った?

女帝エリザヴェータが亡くなった1762年1月、甥ピョートルがロシア皇帝『ピョートル3世』として即位、エカチェリーナはついにロシア皇后となりました。

国家に自らの印を押すことを熱望していたピョートルは、プロセインとの戦争を終わらせるなど、強引な手を使い、軍からも国民からも反感を買います。貧しい人々の生活を改善するための国内改革を行いますが、それは下級貴族を遠ざけることになっていくのです。

ピョートルに不信をおぼえた人々が助けを求めたのは、聡明な皇后エカチェリーナでした。彼女は慎重にことをすすめ、同国最強の軍事連隊の支持を経てついに動きました。皇帝と皇后の軍がたたかい、結果勝利をしたのは皇后派の軍でした。ピョートルは半年めにして退位においこまれ、皇后がエカチェリーナ2世として即位することになったのです。。

在位中、12件以上の反乱に直面

多くの反乱に見舞われたエカチェリーナの治世。特に大きかったのが、1773年、エメリアン・プガチョフ率いるコサックと農民の武装集団による反乱です。ロシアの最下層階級である農奴の過酷な社会経済条件に反発し彼らは『エカチェリーナの統治の妥当性』に疑問を投げかけました。元陸軍将校のプガチョフは、自分は退位させられたピョートル3世であり、王位の正当な継承者であると言い出す始末…. (ピョートル3世は死んでいたはず…)

1年以内に数千人の支持者を集めたプガチョフ、これには当初は無関心だったエカチェリーナも大規模な武力で対応、1775年には鎮圧されました。また、前帝により幽閉されていた、イヴァン6世を面に出そうといった動きもありました。

(ロマノフ王朝 イヴァン6世周辺の家系図)

しかしそちらもまた制圧され、イヴァン6世は看守に殺害されました。ロシアの血を一切ひいていないエカチェリーナ、それ故の脅威はエリザヴェータ以上だったといえるでしょう。だからこそ人望が光ったのかもしれません。

長男は父親と同じ運命をたどった

エカチェリーナと、長男パーヴェルの間には大きな確執がありました

それもそのはず、彼は生まれてすぐに当時の女帝エリザヴェータに奪い取られ、息子であえど会えるのは許可がおりた時のみ。エカチェリーナ2世は、産後すぐに手元から引き離された息子に、世間一般のような愛情を感じることはなかったといいますパーヴェルは女帝エリザヴェータと、家庭教師たちによって育てられました

実の息子であれどそんなに関わりがなかったわけで、さらに息子から見れば母は実父を退位と死に追い込んだ女性なのです。

エカチェリーナは、彼がが仕返しをしてくるではないかと恐れ、パーヴェルを自分からも国務からも遠ざけました。それは逆もしかり、パーヴェルもまた母親に殺されるのではないか、と恐れていました。実際エカチェリーナに暗殺の気はなかったようですが、パッとしない頼りないとして、エリザヴェータがピョートル3世が孫に期待をかけたのと同じく、後継者として孫の『アレクセイ』を指名することを企んでいました。

エカチェリーナの最後

仕返しを恐れて、息子を帝位から遠ざけたエカチェリーナ孫のアレクセイに帝位を継がせようとしていることに焦ったパーヴェル。孫のアレクセイは祖母の企みに気づいていたようですが、圧力に屈して、父の邪魔をすることはしませんでした。しかしエカチェリーナは、諸々の手続きを終える前に脳梗塞で亡くなり、パーヴェルがツァーリの座につきました。

しかし即位すると母が心配していた通り、常軌を逸していて人気がなく在位5年で暗殺。結局23歳の息子がアレキサンダー1世として即位することになったのでした。父と似たような運命をたどることになったパーヴェル。

血といいますか、向き不向きも遺伝するのか。ピョートルにしても、パーヴェルにしても、器にそぐわないことをすると、どうしてもその反動がやってくるのかもしれません。

まとめ

ロシア帝国の女帝であり、18世紀後半のロシア史において著名な君主として名を残したエカチェリーナ2世。プロイセン出身のドイツ人でありながら、ドイツかぶれのしがない夫ピョートル3世を廃位し、自らロシアの女帝として即位した強き女性です。

エカチェリーナ2世の治世は、「啓蒙専制君主」として知られています。彼女は啓蒙思想に基づき、教育・文化・法制度の改革を進めました。彼女は啓蒙思想家と交流し、知識人を支援し、ロシアの文化と教育の発展に力を注ぎました。また、エカチェリーナ2世は外交政策でも活躍。彼女はポーランド・リトアニア共和国の分割やクリミアの併合などを行い、ロシア帝国の領土を拡大しました。彼女は黒海地域の支配を強化し、ロシアの海洋貿易を発展させたともいわれています。

エカチェリーナ2世はロシア帝国を大きく変革し、ロシアの地位と影響力を高めることに貢献しました。彼女の統治はロシア史上において重要な時代であり、その業績は彼女をロシア帝国の偉大な女帝として讃えるものとなっています。

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この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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