6度の結婚に加えて、気に入らなくなった妻はさっさと処刑。無理やりな宗教改革で国を混乱に陥れたことで知られるヘンリー8世。彼は2人の王妃アンとキャサリンを断頭台へ送っており、その傲慢さと残虐さでも名を馳せていますが、功績と呼べるものは本当にそれだけだったのでしょうか。この記事ではヘンリー8世の生涯と、知られざる5つの側面をご紹介します。
ヘンリー8世とは
ヘンリー8世は、テューダー朝の2代目のイングランド王です。
王朝を安定させるために強い男児を渇望し、在位中に6人の女性と結婚を繰り返しました。敬虔なカトリックだったにもかかわらず、離婚を認めないカトリック教会から離脱して国教会まで設立。6人の王妃のうち、ふたりは処刑されました。
余にお主はもう必要ない
男児を得るためなら、なりふりかまわないともみえる王の振る舞いは、それだけ王位が不安定だったという証でもあるのでしょう。一般的にこういったスキャンダルが先立つ王ですが、ヘンリー8世は文武に秀でた人物でもありました。
カリスマ的な統治者
ヘンリー8世は同時代に生きた人からは、
絶頂期においては魅力的で教養があり老練な王
王位ついた人物の中で最もカリスマ性のあった統治者
と見られていたようです。権力をふるいながら、文筆家および作曲家としても活動していました。しかし彼は、薔薇戦争の後の危うい平和のもとで女性君主にテューダー朝をまとめることは無理だと考え、男子の世継ぎを渇望しました。
そのため6度も結婚、離婚を繰り返して、イングランドにおける宗教改革を招いたわけですが、晩年は健康を害したこともあり、『好色、利己的、無慈悲かつ不安定な王』だったとされています。しかし、そもそもヘンリー8世が国王となることは予定されていませんでした。
王位につく予定ではなかった
そもそもヘンリー8世は王座につく予定はなく、王位は兄のアーサーが継ぐ予定だったのです。
というのも、彼の母親エリザベスはヨーク家のエドワード4世の王女でした。父親であるヘンリー7世は対立するランカスター家の系統、この2人の結婚によって長引く薔薇戦争の内乱は終止符を打たれたのですが、その翌年1486年、第1子アーサーが誕生したものですから、専ら兄アーサーが王太子として、将来を期待されてきたのです。
兄アーサーは1502年にスペイン王の娘キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しました。しかし、わずか4ヶ月後、15歳のアーサーは謎の病気で亡くなり、王座につくことはなく、かわりにヘンリー8世が1509年に17歳で王位に就くことになったのです。
最初の妃は兄の元嫁
兄ヘンリー・アーサーの死により、キャサリンオブアラゴンは未亡人となりました。当時若くして未亡人となった妻は、持参金とともに帰国するのが常識でした。しかしイギリス王室は、『キャサリン (と彼女の持参金200,000ダカット)』を返したくない、という下心から、やむなく次男ヘンリー8世と結婚させることにしたのでした。
2人の結婚生活は長かったこともあり、円満だったといわれていますが、次第にヘンリー8世の好色が目立つようになり、世継ぎが望めないことも重なって、泥沼の離婚騒動に発展していくことになります。
実は借金地獄
ヘンリー8世が亡くなった頃、彼は50もの王宮を持ち、コレクション(楽器やタペストリーを含む)とギャンブルに多額の費用を費やしていたそうです。
彼がスコットランドとフランスとの戦争に数百万を費やしたことは言うまでもなく、ヘンリーの8世の息子、エドワード6世に王座が継承されたとき、王室はとても残念な状態だったといいます。
王は3番目の妃の隣に埋葬
3番目の王妃はジェーン・シーモア、唯一の男児 エドワード6世を産んだ女性です。1536年のアン・ブーリンの刑死後、ヘンリー8世はジェーンと結婚し、翌1537年に男児 (後のエドワード6世) を出産しますが、その月のうちに産褥死してしまいました。
ヘンリー8世は深く悲しんだそうで、世継ぎの男子を産んだジェーンに感謝を込めて、6人の王妃のうちでただひとり、ウィンザー城内の王室霊廟において隣に眠ることを許したそうです。
まとめ
ヘンリー8世の生意気な自負心と、残忍で冷酷な行いに類稀なる好色、彼が残した逸話の数々はいまも私たちを魅了しています。しかし彼はただ『暴君』だったわけではなく知的であり、言語学者で、スポーツ狂で、ファッションに敏感で文化的に洗練されており、素晴らしい音楽家であり作曲家でもあったのです。
宮廷のインテリアは、重要な家具、芸術作品、あらゆる種類の驚異で満たされていたといいます。数々の女性を虜にしたヘンリー8世、単純に英国王だから、というわけではなく、それだけのものが彼にはあったのかもしれません。
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