【ルイ17世の壮絶な人生に迫る】海外における後世の反応と追悼の声

フランスの歴史

「ルイ17世」ことルイ・シャルルは、フランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの間に次男として誕生した王子でした。彼が実際に「国王」として君臨することはありませんでしたが、フランス革命の間に父王が処刑されると、王党派によってフランスの正統な君主として担ぎ上げられたのです。そんなルイ17世を待ち受けていたのは、憎しみに取り込まれた者たちからの酷い仕打ちでした。この記事では、わずか10歳でこの世を去ったルイ17世の壮絶な人生について見ていきたいとおもいます。

待望の男児

ルイ・シャルルは、1785年3月27日の復活祭の日曜日にベルサイユ宮殿で生まれました。

彼は王家待望の男児でした。何年もの間、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットには子供が生まれませんでした。子供がいないためにフランスのみならずヨーロッパ中で嘲笑の的となっていた国王と王妃自身にとって、これは深刻な問題でありました。

1781年、マリー・アントワネットはついにフランス王位継承者を出産しますが、長男ルイ=ジョゼフはとても病弱であり、廷臣たちは不安を覚えていたのです。そんな最中生まれたのが、次男のルイ・シャルル。彼は、頑健で健康な子でありました。ルイ・シャルルの誕生は王位継承を確実なものとし、少なくとも次の世代へのルイ16世の家系の継承を約束するものと思われたのです。多くの歴史書による記述は、マリー・アントワネットが自分の子供たちを愛していたことを示していますが、彼女は強くて優しい性格の少年に成長したルイ=シャルルを特に愛していたといいます。

マリー・アントワネットへの批判

後継に恵まれ、安泰のように思われた王家でしたが、フランスでは「首飾り事件」をきっかけにマリー・アントワネットへの批判が加速していきました。

子供達の父親は、フェルゼン伯爵なのではないか

といった噂も立ち、マリー・アントワネットは性的、道徳的に破綻した女だと非難されたのです。フェルゼン伯爵はスウェーデンの貴族で、「マリー・アントワネットの親密な関係にあり、彼女の恋人である」と広く信じられていました。

現代の学者は、父親が王以外の人物であったことを示唆する証拠がほとんどないため、この説を否定していますが、噂であってもマリー・アントワネットの名声を傷つけるには充分なものでした。アントワネットは、君主制、増大するフランスの国家の赤字、アンシャン・レジーム下での生活の質の低さに対する彼らの不満の権化となっていったのです。

兄ジョセフの死

1789年5月、ルイ16世はこれらの問題を解決するため、会議をヴェルサイユに招集しましたが、行き詰まってしまいます。そしてそんな最中、不幸が王家を襲ったのでした。長男であり皇太子でもあったルイ・ジョセフが亡くなったのです。

ルイ=ジョセフは昔から虚弱体質でしたが、享年7歳という若さでありました。同じ朝、すすり泣くルイ・シャルルは、

お兄様がなくなられました。

よって、あなたさまが今日から「王太子」です。

といったこと、そして、セント・ルイス勲章を授与されたことを知らされました。ルイ16世は悲しみのあまり、ミサに出席した後、第三身分の代表者との面会を拒否したそうです。国王と王妃もバタバタとし、王太子を悼む時間すらほとんど取らなかったことに愕然としていました。

国王一家の逮捕

王室の悲しみをよそに、第三身分の主張は加速していきます。ルイ16世はパリ地方に3万人の兵士を召集して状況の制御を取り戻そうとしたが、これは暴動を引き起こしただけでした。そうして起こったのが、7月14日の「バスティーユ襲撃」です。

国民議会が夏をかけて王室と上流階級の特権を制限する急進的な改革案を可決する中、ルイ16世がこれらの改革への同意を拒否したため、激怒した7,000人の女性が1789年10月5日と6日にパリからベルサイユまで行進したのです。彼らは国会を襲撃し、宮殿を包囲しました。彼らは夜の間に侵入し、2人の警備員を殺害。ホールを通してマリー・アントワネットを追いかけ、

その女を殺してやる!

と脅しました。事態は衛兵によって鎮静化されましたが、ルイ16世は革命令を受け入れ、家族とともに女性たちに同行してパリに戻ることを余儀なくされたのです。その後、王室一家はパリのチュイルリー宮殿に収容され、国家警備隊とフランス国民の監視の下、事実上の囚人として拘束されることになりました

君主制廃止

ルイ16世、マリー アントワネット、そして生き残った2人の子供たちは、3年近くチュイルリー宮殿に住むこととなりました。ルイ・シャルルは、ベルサイユの華麗さに比べて、それが冷たく醜いことだと感じていました。彼を元気づけるため、そしておそらく革命の現実から気を紛らわせるために、マリー・アントワネットは「ゾーイ」という愛称で呼ばれる同年代の少女を遊び相手に採用したといわれています。

1791年6月までに、ルイ・シャルルは6歳になっていました。彼は生き残った姉マリー・テレーズに愛着を持っており、またルイ16世には見られなかった「プライド」や「短気の兆候」を示すようにもなっていました宮廷人たちはこれを、ルイ=シャルルが強力で意志の強い王になることを示すものと受け止めていたそうです。

逃亡と逮捕

しかし、ルイ16世は完全に従順になったわけではありませんでした。彼は公には「革命」を賞賛していましたが、密かに家族とともにフランスから逃亡し、海外で反革命を扇動しようと陰謀を企てていたのです。1791年6月20日の夜10時、ルイ・シャルルは使用人に起こされ、女装をさせられましたた。彼は待っていた馬車に案内され、そこで姉、両親、そして父方の叔母であるマダム・エリザベスも全員変装して同乗しました。

闇に紛れて、馬車はチュイルリー宮殿を出発し、オーストリア軍が出迎えを待つオーストリア領ネーデルラント(ベルギー)との国境に向かったのです。しかし逃亡は失敗、翌日、ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ村に拘留されてしまいます。翌日パリへと連れ戻されるわけですが、馬車に乗り込んだジェローム・ペションは王太子であるルイ・シャルルをからかって少年の長い金髪を引っ張ったり、革命的なスローガンを読ませて楽しんだのでした。

投獄生活

1か月後、王政は正式に廃止され、フランス共和国の樹立が宣言されました。以後、ルイ16世は「市民ルイ・カペー」と呼ばれるようになりました。投獄されてから最初の数か月間、王室は可能な限り通常通りの生活を送ろうと努めました。彼らは刑務所の中庭で割り当てられた時間中一緒にゲームをし、ルイはローマ字を読んだりましました。

寝る前に子供たちに歴史を話す、ルイ16世はルイ シャルルの教育を継続し、特に地理について個人的にレッスンを与えていたそうです。しかし、普通であることには限界がありました。家族は常に警備員の監視下にあり、常に明瞭なフランス語で話すことが求められていたため、プライバシーは存在しなかったのです。寺院には訪問者が殺到していました。

父の処刑

革命家たちがルイ16世を反逆罪で裁判にかけることを決定した後、弁護士たちも絶えず忙しく動き回っていましたあ。有罪判決を受けることが明らかになったとき、ルイ16世は1792年のクリスマスの日を費やして遺言書を修正しました。彼は王太子に、

もし不幸にして王になったとしても、復讐をせず臣民の幸福だけを考えるべきだ

というメッセージを残しました。

父ルイ16世は、1793年1月21日の朝にギロチンにかけられました。その前夜、彼は最後に家族を訪ねていました。王室の従者クレリーは、泣き叫ぶ二人の子供が父親の足にしがみつく胸が張り裂けるような場面を描写しています。

ルイ17世の誕生

ルイ16世の裁判と処刑により、7歳のルイ・シャルルはすぐに王党派によってフランス国王「ルイ17 世」として担ぎ上げられました。もちろん彼は戴冠することはなく、フランス君主制は正式に廃止されましたが、王党派は「現君主の死後直ちに王位が後継者に引き継がれる」と主張したのです。

1793年3月には、ヴァンデ戦争で王党派の反乱軍がフランス共和国に対して蜂起し、ルイ17世を国王と宣言して、彼の肖像を記した通貨を発行しました。フランスの他の地域も同様に「ルイ17世」を認めることとなりました。少年王の父方の叔父であるプロヴァンス伯爵は、フランスからの脱出に成功した際には、自ら摂政になると宣言。これにはハプスブルク家が異議を唱え、王の母としての名誉はマリー・アントワネットに与えられるべきだと主張していますが、つまるところ、「正当な王位継承者」としてルイ17世はその立場を利用されることになったのです。

家族と引き離されて

1793 年初め、ルイ・シャルルとマリー・アントワネットを救出する計画がいくつか立てられましたが、どれも中途半端で、実現には至りませんでした。夏までに、連合軍の軍事的勝利とその後のブルボン王政復古の可能性が高まっており、樹立したばかりの「フランス共和国」はあらゆる面で窮屈になりつつあると感じていました。

そのため、ルイ・シャルルを母親から引き離すために7月3日に委員が派遣されたのです。マリー・アントワネットは、委員たちが「彼女を殺す」と脅したときでも、彼らに連れられて行くことを拒否しました。彼らが、

お前の娘を殺すぞ!

と脅迫して初めて、涙ながらに折れたのです。

ルイ・シャルルは別室に隔離されていましたが、その後アントワーヌ・シモンという名の靴屋が後見人となりました。サイモン自身はほとんど読み書きできなかったが、委員会から、王子ではなく愛国的な国民としての少年の再教育を監督するよう委託を受けていました。

ルイ17世への虐待

後に、「王党派の作家」たちは後にサイモンの虐待について語っています。

それは、彼はルイ・シャルルに泥酔するまでワインを飲ませ、汚い言葉で話すことを教え、少年が泣くたびに定期的に殴ったといったものでした。伝えられるところによると、サイモンはルイ17世に売春婦とのセックスを強要し、それによって意図的に性病に感染させたというものもあります。

しかしこれらの話はいずれも証明されておらず、革命家に敵対する王党派の「作家」によって伝えられたものであるため、割り引いて受け止めるべきですが、マリー・テレーズが回想録の中でシモンを「怪物」と呼んでいることは注目に値するでしょう。

マリー・アントワネットの裁判と処刑の直前の1793年10月6日、ジャーナリストのジャック・ルネ・エベール、シモン、および彼らの同胞らがルイ・シャルルを訪れ、あの手この手でルイ・シャルルを説得し、性的暴行を受けたと主張する陳述書に署名をさせました。

母マリー・アントワネットとエリザベス夫人から性的虐待を受けました

まだ多感な子供だったルイ・シャルルは取り込まれ、彼の供述は裁判の証拠として使われたのです。姉であるマリー・テレーズはそのような嘘をつくことに同意した弟に激怒しましたが、マリー・アントワネットは、

弟を許してあげなない

と言いました。そして、王妃マリー・アントワネットは1793年10月16日にギロチンにかけられたのでした。

少年の容体

1794年1月、サイモンは宮殿を去りました。この間、ルイ・シャルルはまだ健康である、とされていましたが、宮殿の記録はブルボン王政時代に破壊されたため、その後半年の間、ルイ・シャルルの容態は不明でありました。1794年7月28日にマクシミリアン・ロベスピエールが失脚した後(シモンも同日ギロチンにかけられた)、ポール・バラスが刑務所に到着。

同氏の報告によると、ルイ17世は半年の間、檻に入れられた動物のように立てこもった暗い部屋に閉じ込められ、警備員以外の人間との接触は一切なかったといいます。バラスはルイ・シャルルに掃除をさせ、ジャン・ジャック・ローランの世話を任せました。

ルイ17世の死

ルイ・シャルルは、後見人となったローランの世話ではるかに良く扱われるようになりましたが、その間ずっと完全に沈黙を保っていたと報告されています。それは母親に対してついた嘘に対しての償いだったとも言われています。1795年5月、ルイ17世は重病であると報告がなされました

主治医である PJ Desault が呼び出されましたが、ルイ・シャルルは診察前に突如として亡くなってしまったため、毒殺の噂も流れました。ルイ17世ことルイ・シャルルは1795年6月8日、死因は結核であったとされています。伝統に従って、ルイの心臓は取り出され、水晶の壺に納められました。残りの遺体はサント・マルグリット墓地に埋葬されましたが、儀式などは行われませんでした。

偽物の登場

1815年の王政復古によってついにルイ18 世が王位に就くと、自分が「ルイ 17 世である」と主張し、彼の財産に対する権利を主張する者が40人も現れました。

ルイ17世生存の噂は、1999年に保存された心臓の大動脈の一部が検査のために研究所に送られるまで続きました。それは、マリー・アントワネットの髪の毛など、複数の家族から採取された DNA サンプルや、ルーマニアのアン女王など、当時存命だった母方の親戚の DNA と比較されるだけだったのです。2000年4月に発表されたこの調査結果は、ミイラ化した心臓が確かにルイ・シャルルのものであることを証明し、彼の生存の噂の信憑性を覆すものとなったのでした。これにより、牢獄で亡くなったのは確かにルイ17世であることがわかったのでした。

海外の反応

2000年になり、明らかになった調査結果。このような形で亡くなったルイ17世については、ひろく同情の声が寄せられています。

無実の子供に与えられた信じられないほどの拷問と非人道的な扱い。

これはフランス史上最悪の歴史である。生まれた権利のためだけに子供をこんなに苦しませるなんて。彼 (子供) をアメリカやオーストリアにただ追放するこはできなかったのだろうか。とても悲しい。

少なくとも彼は、罪を犯して投獄されている間、新鮮な空気を吸い、空や木や太陽を見ることが許されていたらしい。少しの慰めではあるが、これらの小さな自由の瞬間が彼の痛みをいくらか和らげてくれることを願っている。今彼は両親と安らかに眠っているのだから、彼に祝福を。

幼い少年が虐待されていたというのはとても悲しいことだ…父のルイ16世がもっと賢く、他の親類と同じように革命の初期段階でどこかの国に早く脱出できていれば、少年は幸せに長く生きることができたかもしれないのに。

まとめ

秩序も何もなく荒れ果てたフランス革命時の母国。

ルイ17世の存在はフランス革命期の歴史において重要な要素であり、その運命について海外でも注目が集まっています。海外の読者は、ルイ・シャルルが拘束された場所や環境 (自身の糞尿にまみれていたといわれている)、そして彼が直面した苦難について深く感じ入りました。多くの読者は彼の苦痛に対する同情を示し、追悼する声をあげました。

王位継承者として生まれたがために、ひどい扱いを受けることになったルイ・シャルルことルイ17世の人生は、いまでも「悲しい歴史」の象徴として語種となっているのでした。

 

 

この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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