クラオパトラ、ヘレネー (ギリシャ神話の登場人物)とともに、世界三大美人の1人として数えられる楊貴妃。その美しさばかりが語られる彼女ですが、実際どのような人物だったのでしょうか。この記事では、今更聞けない、楊貴妃という女性は何者だったのかをご紹介します。
- 豊満な身体をもち多彩な才能を持ちあわせていた楊貴妃
- その妖艶さの虜となった玄宗は彼女を後宮へと招き、あらゆる贅沢を許した
- あげく国を傾け、彼女は「傾向の美女」と呼ばれて自死させられるに至った
今更聞けない楊貴妃とは
三代美女に数えられる楊 貴妃、彼女は中国唐代の皇妃でありました。
ちなみに『楊貴妃』というのも通称であり、名字が楊、名は玉環といいます。「貴妃」は皇妃としての順位を表す称号でした。彼女は『玄宗皇帝』の寵姫でありました。
皇帝が彼女をあまりに寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたとも伝えられており、『傾国の美女』と呼ばれることもあります。また彼女は、古代中国四大美人 (※) の一人とされており、その容姿は、壁画等から想像するに、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であったともいわれています。また、才知があり琵琶を初めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られています。(※) 古代中国四大美人は西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃とされている
楊貴妃の生涯
楊貴妃の物語は、西暦618〜907年の唐代に遡ります。
その妖艶な美貌に魅せられた玄宗皇帝は、なんとしても彼女を側室にしたいと考えました。玄宗の後宮に入って間もなく、彼女には「貴妃」の称号が贈られました。
「貴妃」の位は皇后に次ぐもので、皇帝の温情でいとこの楊国忠 (ヤン・グオジョン) 氏が首相になるほど、彼女がもった力は壮大なものだったのです。しかしそんな彼女の存在がやがて一族の権力闘争をもたらし、『安禄山の乱』につながります。
皇帝の寵愛
本来、玄宗は唐を復興させて絶世期へと導いた皇帝だったはずでした。しかし、楊貴妃が現れてからというもの、彼女の虜となり散財をし楊家を取り立てたりと身勝手な行動が目立つようになります。そして 755年には、楊国忠(ヤン・グオジョン)と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落。
これが世に言う「安史の乱」です。洛陽が陥落したことを知った玄宗は、楊貴妃をつれて逃げ出しました。しかし家臣たちの不満は、
と楊貴妃へと向かっていきました。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばいますが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命じたのでした。
楊貴妃の最後
皇帝は彼女を心の底から愛していましたが、それでも彼女に死を与えることになります。『楊太真外伝』によりますと、楊貴妃は、
国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。
最後に仏を拝ませて欲しい。
と言い残し、高力士によって縄で首を捻られて殺されたと記録されています。 この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられています。生き残り説もありますが、陳玄礼らによってその死は確認され死体は郊外に埋められたのでした。
まとめ
その妖艶な美貌に魅了された玄宗により後宮へと招かれた楊貴妃。
彼女の虜となった玄宗はあらゆる贅沢を許したあげく国を傾け、彼女は「傾向の美女」と呼ばれて自死させられるに至ったのでした。彼女の妖艶さが皇帝を狂わせたのか、贅沢に驕った彼女が国をおかしくしたのか、あるいはどちらもであったのか、真偽のほどは定かではありません。 ただ彼女の美しさが災いしたことだけは確かなのでした。
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