フランスルイ14世の元へ嫁いだのは、スペインハプスブルク家の当主フェリペ4世の娘マリー・テレーズ。敬虔なカトリック国で生まれた彼女は、両国の平和のために慣れないフランス宮廷へと嫁ぎました。結婚の時に父帝は、娘へこう言ったといいます。
もし2つの王国の間で戦争が起こったら、お前はスペイン王女であったことを忘れなければならないよ。そしてフランス王妃であることだけを思い出しなさい
ところがフランスとスペインはたちまち敵国同士となり、それでもマリーはどんなに心痛むことがあろうとも、血統に基づく王家の権威を生涯忘れることなく、王妃としての役割を全うしたのでした。二つの国の狭間にたち、次々に現れる夫の愛人たちに苦悩しながらも敬虔な王妃として生涯を全うしたマリー・テレーズの生涯をご紹介します。
スペインの王女
後にルイ14世の妻となるマリー・テレーズ・ドートリッシュは1638年9月10日、マドリード郊外のエル・エスコリアル宮殿で誕生しました。それはルイ14世の誕生から5日後のことで、父はスペインハプスブルク家当主のフェリペ4世、母はフランス王ルイ13世の妹イザベラでありました。
ルイ13世の妻でルイ14世の母となるアンヌ・ドートリッシュは、フェリペ4世の姉ですから、未来の夫婦はいとこ同士だったということになります。この時代、良家同士での縁談が多く結ばれていたのです。
スペイン宮廷での生活
マリー・テレーズはスペイン王女として、複雑で厳密な宮廷システムの中で大切に育てられました。宮廷生活はすべてが規則によって統制され、いかなる偶然も入り込むことが許されませんでした。女官に限らず、王女に支える者たちは、どんな下っ端の召使いでもその役割が事細かく決められ、余計なお喋りはもってのほか、笑う時さえ許しが必要なほどで、彼女を取り巻く環境はいやがうえにも厳かにならざるをえなかったのでした。
この時代のスペインは対抗宗教改革の只中にあり、マリー・テレーズには、アビラの聖テレサやフランシスコ・サレジオの影響を受けた、カトリックの厳格な宗教教育が施されました。ネットフリックスのドラマ『ベルサイユ』に出てきた王妃マリー・テレーズも厳格なカトリック教徒を演じていたのはその通りで、王女の周りには信心深さを基準に選ばれた老女たちが大勢侍り、朝から晩までマリーを見張っていたのでした。
慰み者を交えた幼少期
1644年10月に母イザベラが亡くなったことは王女に悲しみをもたらしましたが、とはいっても、マリー・テレーズが重苦しいだけの幼少期を過ごしたかといえばそうではなく。マリー・テレーズには名門貴族の娘の中から選べらた気の合う友達がいました。
また彼女を楽しませるために、取り巻きには道化や小人も加えられました。ちなみに道化や小人の存在には、教育的かつ道徳的な意義もあったといわれています。つまり、王女に神の寵愛の不公平な配分に気づかせ、恵まれない者を保護する慈愛を教える意味合いがあったのです。
そして何より、父フェリペ4世がマリー・テレーズに惜しみない愛情を注いでいました。国王が散歩に行く時には、いつも王女が傍らにおり、馬を巧みに乗りこなして銃の扱いも習熟していたそうです。スペインに生まれた王女様はお転婆とはいかないまでも、単なるおとなしい令嬢というわけでもない幼少期を過ごしたのでした。
課せられた宿命
フェリペ4世時代のスペインは、黄金時代の輝きはとうに失われていたとはいえ、依然ヨーロッパ随一の大国であり、マリー・テレーズはヨーロッパで最も輝かしい王女でありました。
さらにスペイン王家の不幸が、このあと皮肉にもマリー・テレーズの輝きを増大させることになります。母妃エリザベトの死からわずか2年後の1646年、マリー・テレーズの9歳上の兄バルタサールカルロスが死去、他の兄弟たちが天逝していたため、マリー・テレーズが『唯一の王位継承者』となってしまったのです。
結婚相手として最有力候補はフランスの王太子ルイ、未来の太陽王ルイ14世でした。
名門ハプスブルク家にとっても、家格と権勢を考慮さればスペインにとってルイは申し分のない花婿でした。しかし当時のスペインとフランスは交戦状態にありました。神聖ローマ帝国の宗派対立からはじまった30年戦争は、周辺諸国を巻き込んで国際的な宗教戦争へと発展していたのです。1648年10月、ようやく30年戦争が終わりますが、スペインとフランスの戦争は続いていました。そのうえフランスでは、長引く戦争とそれに伴う増税から宰相マザランへの不満が爆発します。そう、あの幼きルイ14世にトラウマをつくったあのフロンドの乱ですね。
進む婚姻話
マリー・テレーズの運命を変えたのは、父フェリペ4世の再婚でした。相手はマリアナ・デ・アウストリア、マリー・テレーズよりわずか4歳ばかり年上の彼女が、王女マルガリータと王子フェリペ・プロスペロを産んだのです。これによりマリー・テレーズの王位継承が遠のき、婚姻話はいっきに加速していきます。王女、ときに19歳でありました。
1659年1月、フランスとの交渉成功の知らせがスペインの宮廷へ届きました。トントン拍子に行くかと思いきや、しかし肝心のルイ14世がこの結婚を望んではいませんでした。彼はすでに宰相マザランの姪、マリー・マンシーニに夢中であり、相思相愛であることはフランス宮廷では周知の事柄でした。
しかしルイの母后アンヌとマザランはそれを許さず、同年6月にマリー・マンシーニを太平洋岸の町ブルアージュへと追放したのでした。
婚姻にあたっての交換条件
その後スペインとフランスの間の長い戦争に終止符が打たれ、和平の証として、フランス王ルイ14世とスペイン王女マリー・テレーズの結婚が正式に取り決められました。
この時に交わされた結婚の条件は、
- マリー・テレーズとその子供は、スペイン王位を放棄する
- スペインは3期に分けて、金貨で50万エキュの持参金を支払う
というものです。そして肝心なのは「王位の放棄は、持参金の支払いが済んでからの発効となる」という条件がついていたことです。この時宰相マザランは、スペインが持参金を支払えないことを見越していたといいます。やがてルイ14世は、この「王妃の権利」を声高に主張するわけですが、外交の名手と呼ばれたマザランあっての結果でした。
執り行われた祝典
ちなみにこの時、宮廷の祝典を取り仕切る役割を果たしたのが、「ラス・メニーナス」を書いたことで知られる、スペインお抱えの宮廷画家ベラスケスです。このたびのマリー・テレーズの婚儀も、彼の差配の下で執り行われることになったのですが、婚礼が一通り終わった直後、彼は病に倒れそのまま亡くなることとなります。ベラスケスの死を早めたのは過労だといわれておりますが、ベラスケスの描いた絵によりマリー・テレーズの姿は永遠と後世まで伝えられることとなりました。
スペインにとってもこの結婚には重大な国家の利益がかかっていましたから、ベラスケスはその重圧を受け止め命を縮めたのかもしれません。
婚儀がおこなわれたのはスペイン側の町フォンタラビ。フランスの地へ入ったマリー・テレーズはフランス国王の妻となったことを嬉しくおもう反面、最愛の父から離れ慣れない土地へと嫁いだことに大きな不安と寂しさを覚えて、その晩を「お父様」と泣いて過ごしたといわれています。結婚式は6月9日、サンジャンバティスト教会で行われました。荘厳な雰囲気の中、マリー・テレーズはあらためて「フランス及びナヴァールの王妃」となることが神の前で宣言されたのでした。
ルイ14世のもとで
その後ルイ14世とマリー・テレーズの間には、3男3女が誕生します。しかし成人に達し、無事に育ったのは長男ルイのみで、幼い子達を立て続けに失ったマリー・テレーズは母として深い悲しみを負いました。しかし最もマリーを悩ませたのは、ルイ14世の愛人たちの存在です。
結婚翌年の1661年はフランス宮廷にとって、話題の多い年でした。3月9日に今まで文字通り粉骨砕身で努めてきたマザランが亡くなり、ルイ14世は貴族と大臣を集めてルイ14世は今後は自ら統治することを伝えました。また同月末実には弟フィリップとイギリス王女アンリエットと結婚。さらに9月5日、財政長官ニコラ・フーケが公金横領の罪で逮捕されました。マリー・テレーズが第一子を妊娠したのは、この慌ただしい時期の最中でありました。
弟嫁アンリエット
後継者の誕生は本来おめでたいことでありますが、王妃にとっては外出したり遊興にふけることもできないつらい日々でした。加えて元々フランス語がそれほど得意でなく、機知に飛んだ会話で競い合うようなフランス宮廷のスタイルについていけず次第に孤立していくようになりました。
ルイ14世もまた、そのような妻と過ごすことには退屈を覚える中、国王の関心を引いたの新婚の義妹アンリエットでした。
ドラマベルサイユのシーズン1では、ルイ14世とアンリエットが親しくしているシーンが多く登場しますが、あれは実話だと考えられています。2人の中は宮廷中の話題となるほどで、実際恋人のように寄り添いながら語らう2人の姿が度々目撃されていました。それはスキャンダルを危惧した母后アンヌがアンリエットに「慎むよう」忠告するほどでした。
止まぬ好色
人々の視線を逸らすためにアンリエットは、侍女のルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを当て馬とします。しかし困ったことにルイ14世とラ・ヴァリエール嬢は思いの他親しい仲となってしまったのです。母后の心配した通り、信心深い貴族たちも度重なる国王のスキャンダルには眉を顰めたといいます。
王妃の苦悩を知ってか知らずか、ラ・ヴァリエールへのルイの愛情は深まっていきました。1664年の春にヴェルサイユで開かれた大掛かりな祝典「魔法の島の快楽」は、ラ・ヴァリエールを喜ばせるために催されたものでした。
それでもマリー・テレーズは敬虔な王妃を演じて公の場では屈辱に耐え、我慢しきれないときにはルーヴル宮殿に近いブロワ通りのカルメル会修道院に逃れて思う存分涙を流しました、16664年9月にはついに耐えきれなくなり苦悩をルイ14世に直接訴えますが、ルイは、
30歳になったら良い夫になろう
と開き直りともとれる返答をしただけでした。
危ぶまれるスペイン
1665年9月、最愛の父フェリペ4世が亡くなり、マリー・テレーズはひどく哀しみに暮れました。そして追い討ちをかけるように翌1666年1月、宮廷で最も頼りにしていた母后アンヌ・ドートリッシュが亡くなってしまいます。
義娘が辛い日々を過ごしていた頃、夫のルイ14世はこれまであった母后の抑制がなくなったと言わんばかりに、ラ・ヴァリエール嬢との関係も隠さず誰に憚ることなく大っぴらに見せびらかすようになったのでした。
フェリペ4世の後を継いだのは、異母弟であるカルロス2世でした。即位したときにはまだ3歳の幼児であり、なおかつ病弱だったためスペイン王家は断絶の危機を迎えておりました。フェリペ4世も王朝断絶を予期して、
もしカルロス2世が亡くなった場合はどうだろうか。
スペインの王位はレオポルト1世 (姉マルガリータの夫であり神聖ローマ皇帝)に譲る。
旨を遺言にしたためていました。
継承権を狙うフランス
しかしここで亡くなった宰相マザランの力が再燃します。フランスは花嫁の持参金未払いを持ち出し、『マリー・テレーズ』に王位継承権が残っていることを唱えたのです。さきに書いた通り
- マリー・テレーズの結婚に際しては、50万エキュの持参金と引き換えに王位を放棄が約束されており、
- 払われていない以上フェリペ4世の遺言は無効であると主張
したのです。
結婚の時にフェリペ4世は、マリー・テレーズへこう言ったといいます。「もし2つの王国の間で戦争が起こったら、お前はスペイン王女であったことを忘れなければならないよ。そしてフランス王妃であることだけを思い出しなさい」と。
敵となった祖国
嫁ぎ先と故国が再び敵国同士となり、実際スペイン領ネーデルラント諸都市の占領は王妃の名の下に行われました。王妃自ら前線で閣兵式を行い、占領した都市では主権者として振る舞いました。
ルイ14世もその点はきっちりと理解し、捕虜とした将校には彼女に忠誠を誓わせ、入市式に際しては彼女に主役を譲ったといいます。こうしてマリー・テレーズは心を痛める日々を重ねながらも、「フランス王妃」としての自覚と威厳を身につけていったのでした。
唯一摂政を任されて
しかしルイが王妃を嫌っていたかというとそうでもなく、マリー・テレーズがただ王の言いなりになっていたわけでもないのです。ルイ14世はたしかに妻を愛していたし、尊敬の念さえ抱いていたというのです。ルイ14世のマリー・テレーズに対する信頼の気持ちは、オランダ戦争に際してもはっきりと示されています。
1672年4月6日、オランダに宣戦したルイ14世は、自ら軍を率いて戦場に向かいますが、この国王の不在という事態に対処するため、留守中の権限を王妃へと委譲したのでした。実際王妃は王にかわって顧問会議を主宰することができましたし、王が戦場から送る書簡はすべて王妃へ届けられ、王妃から大臣らへと伝えられました。
財政顧問会議が開催されたときには王妃の名で命令が出されましたし教皇特使をはじめとする外交施設の謁見を受けたのも王妃でありました。なお、マリー・テレーズ以降、摂政として国王の代わりを務めた王妃はいません。
やまないスキャンダル
その後フランドル諸都市を征服している時に、ルイに同行したのはモンテスパン公爵夫人でした。彼女は名門ロシュシュアール家の出身で、その美貌と機知に飛んだ会話で国王をすっかり虜にしましたが、実は彼女を気に入ったのは王妃が先でありました。
しかしある日、国王と良い仲であることを密告する匿名の手紙が王妃の元へ届けられたのです。この時王妃は、自分の侍女が侮辱されたとして激怒し、その手紙を夫へ手渡したといいます。しかし彼女がラ・ヴァリエール嬢の次に寵愛を受けた新たな愛人であることは、まもなく宮廷中が知ることとなりました。
お気に入りの侍女の裏切りを知ったときのマリー・テレーズの衝撃はいかがほどだったでしょうか。王妃付きの侍女であっても、その人事は国王の裁量に委ねられており王妃はただやり過ごすしかありませんでした。
されど愛妾たかが愛妾
オランダ戦争の前後は、モンテスパン夫人が宮廷に君臨した時代でもありました。1673年12月に彼女が国王との間にもうけた2男1女が正式に認知、1879年には王妃のイエの女官長に就任。しかしモンテスパン夫人の権勢は、けして磐石なものではありませんでした。モンテスパン夫人が産んだ子供は国王により正式に認められましたが、その母親については、彼女が既婚者だったために明らかにされなかったのです。
モンテスパン夫人は表向き、王妃の女官長に過ぎませんでした。そして何より、国王の好色が続いており、ライバルが絶えなかったのです。40を迎えてなお、ルイ14世の女性への関心は薄れなかったのです。
フォンタンジュ嬢、毒殺事件
1679年からは、ルイは2人目の王弟妃の侍女を努める18歳のフォンタンジュ嬢に夢中になっていました。しかしそのフォンタンジュ嬢が、1681年に突如亡くなります。当時は宮廷中を震撼させた「毒薬事件」の真っ只中で、千年2月に毒薬を製造販売したとして処刑されたラ・ヴォワザンの娘が「母の顧客にモンテスパン夫人がいた」ことを暴露していました。
さすがにルイ14世も毒殺容疑はにわかに信じがたかったものの、モンテスパン夫人が王の情愛を取り戻すために怪しげな媚薬を飲ませていたことが明らかとなり、彼女に対する情愛も失われてしまったのでした。
マノントン夫人
以降、モンテスパン夫人に代わって王の寵愛を得たのが、彼女の子供の養育係をつとめていたマノントン夫人です。いつから愛人関係になったのかははっきりしないものの、聞き上手で然るべき時には黙る術を身につけていた彼女に国王は次第に心を惹かれていったのでした。
フォンダンジュ嬢の死とそれに続くモンテスパン夫人の失寵を機に、夫としての義務に立ち返るようマノントン夫人に説得されたルイ14世。1850年以降はかつてないほどの愛情を王妃へと示すようになり、長い時間を彼女との会話に充てるようになりました。敬虔な王妃を神は見捨てていなかったのか、最後の平穏の中、王太子ルイの結婚も決まり1682年にはついに初孫のブルゴーニュ公が生まれることになるのでした。
マリー・テレーズの最後
王妃が息を引き取ったのは、1683年のことでした。享年44歳。
ヴェルサイユに宮廷が居を定めてちょうど1年後の1683年5月、ルイ14世はブルゴーニュ地方およびアルザス地方の要塞視察に出ました。この時マリー・テレーズも体調不良を抱えながらも同行し、馬上での閣兵式や修道院訪問など王妃としての義務を果たして、2ヶ月後の1683年7月20日ヴェルサイユへと帰還します。その後王妃の隊長は悪化し、高熱を繰り返す王妃に治療が行われましたが効果はなく。
ルイ14世も枕元で様子を見守るも、いよいよ最期の時が近づくと宮廷のしきたりにより部屋を出ざるを得ませんでした。午前3時王妃は息を引き取り、死因は左脇にできた腫瘍が原因の敗血症だとされました。嘘か誠かルイ14世は「これは彼女が私に与えた最初の苦痛だ」と呟いたそうです。
まとめ
王弟妃は「王妃が亡くなり、国王は心から悲しまれた」といい、国王は王妃の死に少なからずショックを受けた…そうですが、王妃の死から2ヶ月後、ルイ14世はマノントン夫人と密かに結婚しふたりは生涯の伴侶となりました。彼女との結婚が公開されることもなければ、マノントン夫人が王妃として制度的な役割を果たすこともありませんでした。
ルイ14世の”王妃”は、たしかにマリー・テレーズだけだったのです。この事実は、君主の世界が血統原理によって厳格に統制されていたことを意味します。血統主義を貫き、自らの「高貴な青い血」を守り結果的に断絶したスペインハプスブルク家。父のフェリペ4世は無能王と言われることもありますが、芸術を見る目は確かで、子に対する愛情も人一倍の人物でした。出身のマリー・テレーズは敵国に嫁いでも理不尽な目に遭おうとも、血統に基づく王家の権威を生涯忘れることなく、王妃としての役割を全うしたのでした。
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