17世紀のフランス宮廷において、ダンスは必須のたしなみでありました。ダンスは社交的な礼儀正しさと政治的な要素の両方を兼ね備えており、貴族の生い立ちを示すものだったのです。
ルイ14世の時代、宮廷で下手なダンスを披露すれば恥をかくだけでなく、キャリアすらも台無しにする可能性もありました。この記事では、現代のバレエにも大きな影響をあたえたルイ14世とバレエの関係を辿っていきます。
17世紀のフランスにおけるバレエ
ーその若い貴族は床につくとすぐにバランスを失いました。聴衆は大笑い、困ったことに、彼は手を振り顔をしかめながら、足から注意をそらそうとしましたがその動きは逆効果でした。部屋の中で最も重要だったルイ14世を含めて、誰もが大笑いしたのです。
こんな逸話が残されています。話にでてくる若い貴族はこの大失敗の後、長い間宮廷には現れなかったそうです。伝えられるところによると、1660年のパリには200以上のダンス・スクールがあり、若い貴族が熱心にダンスを学習していました。
自身もバレエダンサーであったルイ14世にとってバレエは単なる芸術ではなく、国を維持する重要な要素だったのです。そもそもなぜ、王はそこまでダンスに固執したのか。その理由を探っていくと、ルイ14世の幼少期にたどり着きます。
ルイ14世を変えた、過去の苦い記憶
ルイ14世が10歳のとき、王室に不満をもった貴族たちの反乱がおきました。「フロンドの乱」と呼ばれるもので、反乱軍はパリを包囲し王宮内にいたルイ14世の寝室まで侵入、彼はパリから一時的に避難を余儀なくされました。
幼い王にとって相当無衝撃であったのか、1652年14歳で戻ったときは別人のようであり、自分の部下を含めてすべてを疑うようになりました。
彼がパリでなく、ヴェルサイユに宮殿を建てたのは幼い頃のこの記憶が原因だとも言われています。ルイ14世は生涯、貴族たちの権力欲を打ち砕くことに労を費やすことになります。彼は「自分は神に選ばれた王である」ことを信じており、ギリシャ太陽神アポロンに自分を重ねました。
ルイ14世がこだわった、絶対王政
ルイは自らを世界の中心である「太陽王」と呼ぶよう仕向けました。また彼は自分の軍隊を編成し、貴族たちからかつての軍事任務を奪い、絶対君主として立ち上がりました。「陳は国家なり」というあの言葉は、『自分のやることがフランスの全てを決める』ことを印象付けるためでした。
ルイ14世は、自分の権力を誇示し高めるためにできることは何でもしました。彼はフェンシングとヴォールティング (跳躍) を練習し、個人的なダンスの師匠ピエール・ボーシャンと毎日何時間も練習をしていました。たとえば筋肉が見事に再現された彼の彫刻は、王の身体が完璧なものであり均整が取れていることを誇示する他に、『彼が神により使わされた権威者であり、すべての力の源』であることを証明する意図もありました。
貴族たちを監視する『黄金の刑務所』
貴族階級が再び王室に立ち向かい反乱を起こさないよう、ルイ14世は貴族をヴェルサイユ宮殿に留め目を光らせていました。しかし完全に支配することはできず、揉め事もたくさんありました。
それでも王は遠くの領地にいる貴族たちを宮殿に呼び寄せ、管理ができるようヴェルサイユに留まることを強制したのです。ヴェルサイユ宮殿は、別名『黄金の刑務所』とも呼ばれていました。
ある意味で、ルイ14世が宮殿に建てたヴェルサイユでの生活は、複雑に振付けられた踊りのようだったといわれています。貴族と女性は、どこに立つことができるか、どのように部屋に出入りできるか、どのタイプの椅子に座ることができるか制限されていました。家は精巧なウィングに分割され、住民はセダンチェアを介してそれらの間を移動しました。
セダンチェアは屋内タクシーとして機能しました。ちなみに王室だけが自分専用のタクシーチェアをもっており、他の人たちはフラグを立てる必要がありました。
エチケットとして導入されたダンス
貴族たちが事細かなエチケット (礼儀) に気を取られていたら、王室を打倒する暇はうまれないだろう。
この考えのもと、ルイ14世は多くのエチケットや儀式を宮廷内に作り込みました。貴族たちは王が決めたルールのなかで、自分のステータスを意地するために全てのエネルギーを費やしました。それは実際のところ有効であり、実際君主世に立ち向かう時間も能力を多少なりともそぎ取ることができたのです。ルイ14世がそのひとつとして利用したのが『ダンス』でした。
ダンスは何十年もの間、宮廷のエチケットと複雑に結びついていました。しかしルイ14世のもと、それは宮廷において最も重要な社会的機能のひとつになりました。貴族たちは、年2〜4回社交ダンスを学び夕食前に社交のダンスを行いました。
出世したいのならば踊れ
現代とは違い、ダンスは貴族たちを縛る義務的なものでした。
ルイ14世の宮廷では、廷臣たちは12以上の踊りをマスターしておかなければなりませんでした。その多様さ複雑さを考えると、貴族たちはかなりのエネルギーをダンスにさかなければならなかったことになります
ルイ14世が15歳で舞台デビューした 『ル・バレエ・ド・ラ・ニュイ』は、権力争いの顕著な例でした。43のミニバレエで構成されたこの公演は、空を横切る戦車、雲に出入りする翼のある馬、波から生じるモンスターなどの精巧なセットがあり、一晩中、明け方まで12時間続きました。そしてパフォーマンスの最後には、太陽 (ルイが演じ、宝石で覆われ、ダチョウの羽で覆われている) が夜を打ち負かすのです。ルイ14世はこれを1カ月の間、6回公演を繰り返しました。
バレエにフランス色を
ルイ14世は年を取るにつれ『バレ・ド・クール (宮廷バレエ)』を、男性らしい運動能力を体現するもの、として上演するようになりました。このとき女性は踊ることを許されておらず、女性は通常女装した男性によって演じられていました。 王はもちろん、豪華な宝石をちりばめた複雑な衣装を身にまとった主役を踊りました。彼のお気に入りの衣装は、ローマ皇帝だったそうです。
それは慣習にあった王室の踊りとは程遠いものでした。15世紀にイタリアで初めてバレエが登場したとき、それはゆっくりと優雅なウォーキングのようなものでした。元は1533年にカトリーヌ・ド・メディチがアンリ2世と結婚してフランスに持ち込んだのがはじまりでしたが、ルイ14世はそれを『より技術的で独特のフランス的なものにしよう』と手を加えていったのです。
先進的なフランス文化の象徴として
バレ・ド・クールは、宮廷の日常的なエチケット (礼儀作法) でありました。当時のバレエも、文字通り、永久に神経をつまさ先に研ぎ済ませるよう作られていました。バレエを推奨することは、戦争で勝つことと同じくらい大きなことだったのです。
それは、つまり、フランスが高い文化の中心であることをヨーロッパの他の国々に示す手段でもありました。ルイ14世は世界の指導者たちが、フランスの軍事力と同じくらい、フランスの芸術的功績を称賛することを望んだのです。
ルイ14世の企みは成功しました。フランス王室のファッション、エチケット、遊びは、他の国の宮廷でも憧れの的になるくらい人気を博しました。それはスウェーデン国王が、芸術の発展を観察して報告しなさいとそのために大使を派遣したほどでした。
まとめ
もし彼がまだ生きていたら、「バレエは優雅なものである」という現代の概念に驚くことでしょう。バレエは強力な政治要素であり、国の安定を維持させる手段だったからです。現代の政治家たちは、洗練されたソーシャルメディアなどのツールを利用して自分を表現しようとしますが、ルイ14世は自らのアイディアを芸術に投影して、『自分』と『フランス』を世界中に知らしめた人物でした。
ルイ14世は名門パリオペラの前身である王立ダンスアカデミーを創設し、現在バレエで使われている5つの足ポジションを確立しました。フランス語を芸術形式の公用語にしたのも彼の功績です。ルイ14世がいなければ、バレエは退屈したイタリアの貴族たちにとって、いつまでも社交的なディナーダンスのままだったかもしれません。私たちが関わっている他の芸術文化のなかにも、実は聞いたことのある誰かがかかわっているのかもしれません。
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