絶対君主の最盛期を築いた、わずか4歳でフランス国王に即位したルイ14世。ヴェルサイユ宮殿を建て、自身と「太陽王」と呼ばせて絶対王政を築いたのは有名ですが、結局何をしたのか、と問われるとなかなかわかりにくいですよね。この記事では、ルイ14世は何をした人物なのかを追っていきたいとおもいます。
- わずか4歳で王となり、貴族の反乱に巻き込まれるなど苦労もあった幼少時代
- ヴェルサイユに豪華な宮殿を建てて、貴族たちを徹底的に管理した
- 極端な宗教改修や対外戦争は混乱を招き、フランスは衰退へと向かっていった
ルイ14世の生い立ち
1643年5月14日に父の後を継いだのは、ルイ14世がわずか4歳8ヶ月のときでした。ルイ14世は、幼くして1,900万人の臣民と多大な財産を手にすることとなったのです。
将来太陽王と自分のことを呼ばせただけあり、「目に見える神」と敬礼されてはいましたが、召使たちに世話を焼かれた子供だったといわれています。まだ幼いルイ14世には国政はできず、実情は母アンが摂政をつとめ、その補佐として宰相マザランがついていました。
トラウマを作ったフロンドの乱
宰相マザラン率いる政治に不満がつのり、起こったのが「フロンドの乱」です。
パリはたちまち無政府状態に陥り、ルイ14世と実母アンはパリを脱出せざるをえなくなりました。1648年ルイは状況が飲み込めないまま、貧困や恐怖、屈辱、寒さ、飢えなどにひどく苦しむことになったのです。この大事件は、一生消えない貴族たちの行動への恐れと怒りを生み出し、「絶対王政」を作り上げるキッカケとなりました。
この出来事は、ルイ14世の性格や行動、思考などにも多く影響を及ぼしました。ルイ14世がパリへの滞在を嫌い、寒村であった「ヴェルサイユ」に豪華な城を築くようになるのはそう遠くない日のことです。
ヴェルサイユ宮殿の建設
ルイ14世は、やがて政治の中心をパリからヴェルサイユへ移すことになりました。
そう、あの「ヴェルサイユ宮殿」です。しかしこの宮殿の建設は決して安全なものとはいえず、負傷した兵士や民衆も駆り出される始末。それでもルイ14世はここに水を引き、見事に豪華絢爛な宮殿を作り上げることに成功したのです。
徹底的に管理された貴族たち
さて、先ほどの「フロンドの乱」を覚えていますか。
ルイ14世は二度と貴族たちが、ああいった反乱を起こさぬよう、対策を考えました。貴族や優秀な人物を招集することにより、フランス貴族に対する支配力を強化したのです。
宮殿にはルイ14世をはじめとした王族とその臣下が共に住みました。生活のすべてが「絶対王政の実現」のために利用され、その結果さまざまなルールやエチケット、マナーと呼ばれるしきたりが生まれていきました。
黄金の刑務所
ここでルイ14世は、宮廷で誰がどのように振る舞っているかをこと細かに観察していました。そして、その後の好意と地位の分配をしていったのです。つまり、この時代出世するには「国王」に好かれることが一番だったのです。
政府と王に対する本音や思惑を知るために手紙の開封もいとわなかったといわれています。これがヴェルサイユが『黄金の刑務所』と呼ばれた由縁でもあります。
半ば無理やりな宗教改修
その他、ルイ14世が推し進めたものといえば、「宗教改修」と「4つの対外戦争」でしょう。これが最終的に自身の首をしめることになるのですが、まず、宗教改修からみていきましょう。
教えに反き、肉欲には多々負けていたそうですが、元々ルイ14世はカトリック教徒でありました。 王妃として嫁いだマリー・テレーズもカトリックの守護者を自負する「ハプスブルク家」の出身でありました。そのルイ14世がいきなり、
みな、カトリックに改修せよ
とおふれを出したのです。
優秀な人物は国外へ
しかし、もちろん反対する者が大勢出ました。
とてもそんなのは受け入れられない
と、フランスを活気づけていた商品や業者がいっきに国外へ逃亡することになったのです。結果として、フランス産業は衰退の道へと進んでいくのでした。
ルイ14世自身はあまり信仰心がなかったといわれていますが (実際肉欲には負け続けていたし)、王権神授説など、簡単にいうと宗教的思想を通して「自分が絶対である」という地位を確立しようとしたのです。ただこれは一部から支持はあったものの、結果としては失敗に終わったのでした。
4つの対外戦争
ルイ14世は、領地に対しても貪欲な人物でありました。
あるときは、「自然国境説」を持ち出し、ちゃっかりネーデルランドを自分の領地にしようと戦争を仕掛けることもありました。自然国境説とは、 海や川、山などわかりやすい自然のラインをもとに国境を決めようというものですね。
その他、領地を拡大するためにむやみやたらと戦争をおこなったのも特徴です。オランダ戦争、ファルツ戦争などを起こしたのですが、中でも痛手となったのは、スペイン継承戦争でしょう。
スペイン継承問題
スペインを統治していたのは、(世継ぎが生まれず断絶間近の) スペインハプスブルク家でありました。ルイ14世の王妃であるマリー・テレーズは、スペイン国王カルロス2世の異母姉であり、全王フェリペ4世の実娘だったのです。ルイ14世は、
マリーと自分の間の子には、スペインの血がながれている。
私たちの子供には、当然王位継承の権利がある
として、孫のフィリップをなかば無理やり王位につけたのでした。当然諸外国は快く終わらず、スペイン継承をめぐって争いがはじまりました。
結果フィリップはフェリペ5世として王位につきましたが、「ユトレヒト条約」をもって継承戦争は終わりを告げたのでした。これがいわゆる「スペインブルボン朝」のはじまりですね。
お金だけ使って何も得られず
しかし、この条約は実に(フランスに利益がでないよう)よくできていたのです。
- フェリペ5世の即位を認めはしますが、
- フランス・スペインの合併は永久に禁止とします
というシビアなものでした。つまりフランスは自分たちの血を引く者をスペインの玉座につけ、領地拡大を目指したわけですが、散々戦争にお金を使った挙句、フェリペ5世とは「他人扱い」にされ、「領地合併」も認められなかったわけです。
といっても、ルイ14世の孫フェリペ5世は、フランスの強力な後ろ盾でスペインを掌握し、スペインブルボン長の基礎を築きました。このスペインブルボン朝が、今日のスペイン王室にいたるものです。フランス王室は既に消失しているというのに、スペインには残っているのが面白いところですね。
フランスの衰退
結果は、多くの命とお金を失っただけでした。ルイ14世のあとには、ルイ15世が即位するわけですから、ここから絶対王政は衰退に向かっていき、いずれフランス革命へと突入していきます。
ルイ14世は、死の床で後継者へ次のような言葉を残したそうです。
私が課した、悪い例には従わないでほしい。
私はしばしば戦争を軽率に行い、虚栄心のためにそれを維持してきた。
私をまねるのではなく、平和な君主になり、主に臣民の負担の専念してください。
繁栄したフランスを「カトリック以外は認めない」として、結果的に有能な人を流出させ、領地を広げようと無理な戦争をけしかけたばかりに多くの人材と財を失ったルイ14世。ハイヒールにカツラに豪華絢爛な城をシンボルとし「絶対君主」を貫いた王の、最期の本音だったのかもしれません。
まとめ
当時ヨーロッパだけでなく、ロシアまでもが、ヴェルサイユ宮殿に憧れ、軍事的および文化的な成功をフランスを賞賛するようになりました。またフランスのマナー、価値観なども模倣されるようになり、言語とともに世界へひろまっていきました。
芸術を愛用し産業を奨励し、貿易と商業を促進し海外帝国の設立を後援したルイ14世。彼は初期の改革にてフランスを中央集権化し、現代のフランス国家の礎を誕生させました。フランスをヨーロッパで卓越した地位に引き上げたのは彼の功績が色濃く残っています。
着飾り豪華な城に住まい、王妃を虐げ寵姫に翻弄されたハイヒールの王様。誰にも見えない景色をみていたのだとおもいますが、何を手に入れても満足できない、というのはある意味では悲しいことなのかもしれませんね。
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