【ハプスブルク家と血族結婚】今更きけない帝国史をわかりやすく解説

ハプスブルク

600年以上のなかに眠る歴史と物語の数々、絵画にみえる豪華絢爛な生活。権威の裏にある生々しい覇権争いハプスブルク家の歴史は調べても調べても興味が尽きないほど色濃いものです。今日はそんなハプスブルク帝国史を血族結婚の観点から紐解いていきたいとおもいます。

ハプスブルク家とは

ハプスブルク家とは、”ヨーロッパで最も影響力があり際立った王室の家の1つ”です。

神聖ローマ帝国の王座家はまた 、それぞれの植民地とともに、ボヘミア、ハンガリー、クロアチア、ガリシア、ポルトガル、スペインの皇帝や王、ならびにいくつかの首相の支配者を生み出しました

16世紀からチャールズ5世の治世に続き、王朝はオーストリアとスペインに枝分かれし、異なる領土を統治しましたが度々婚姻も結んでいましたちなみに君主政とは、国を1人の支配者が統治する体制のことですね。ハプスブルク家も採用していました。

ハプスブルク帝国とは

さて、ではハプスブルク帝国とは一体何なのでしょうか。これは、”オーストリア系ハプスブルク家の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合“です。もっとわかりやすくいうと、『ハプスブルク帝国 』とは、

  • 1526年から1804年の間に
  • ハプスブルク大公国と、個人的に同盟を結んだ
  • 諸王国および諸国のこと

ですね。なお、これは歴史家の非公式な用語だそうです。王朝の都はウィーンでしたが、1583年から1611年までプラハに移されています。

ハプスブルク家の台頭

ハプスブルクのはじまりは、1273年にドイツの王となった「ルドルフ1世」です。彼はハプスブルク家の一員であり、ハプスブルク家における最初の神聖ローマ帝国君主した人物でありました。

ルドルフ1世のローマ王(ドイツ王)選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ、ハプスブルク家はヨーロッパ有数の家門に発展することになったのです。ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらしました。

そしてルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やしていき、神聖ローマ帝国に地盤を作り上げたのです。ルドルフはウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地となりました。

婚姻同盟は帝国成長への鍵

戦争は他家に任せておけ。

幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。

結婚を武器に領地を拡大していったハプスブルク家。

わかりやすい例が、武勇に秀で体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われているマクシミリアン大帝です。彼は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ三世の息子で、フランスのシャルル・ド・ボールド王の娘メアリと結婚。
その結果、マクシミリアンは後に神聖ローマ帝国皇帝(1477年)となり、オランダ、ルクセンブルグ、フランスの一部を支配下に置くことになりました。ハプスブルグ家はヨーロッパでの影響力を大いに拡大したのです。

不都合な事情と、近親婚

マクシミリアンがハプスブルク王朝に与えた最大の貢献は、息子のフィリップとフアナ (カスティーリャ女王)の結婚を確かなものにしたこと、だといわれています。

「狂女フアナ」という異名でも知られていましたが、彼女はスペインのフェルディナンドとイザベラの娘であり、多くの金と土地と名声を持ってやって来たのです。フィリップの元に生まれたのが、カルロスです。しかしハプスブルク家によって浸透された広大な土地と王族は、近親交配の文化に直接つながり最終的に一家を滅ぼすことにもなりました。

物事は奇妙な方向へ

ハプスブルク家の巨大な影響力を考えると、権力の維持と、それを可能にする結婚の手配の難しさがみえてきます。カール5世の娘マリアは1548年に従兄弟のマクシミリアン(フェルディナンドとアンの息子)と結婚しました

息子のフィリップは姪マリア・マクシミリアンの娘でオーストリアのアンナと結婚します。「高貴なる青い血」、血統をつないでおくことは王朝の権力にとって理想的でしたが、このような結婚は血縁関係の緊密化を引き起こし、悲劇につながっていくのでした。

結婚はより近親へ

集学的雑誌PLOS Oneで発表された2009年の遺伝学研究によると、

スペインのハプスブルク家では、乳幼児死亡率が非常に高かった。

フィリップII世とチャールズII世がそれぞれ生まれた1527年から1661年までのスペイン王室には34人の子供がいたが、そのうち10人(29.4%)は1年以内に死亡し、17人(50.0%)は10年以内に死亡した。

という結果がでています。ハプスブルク家の乳幼児死亡率の高さは、結婚と近親交配の結果であると主張されました。

彼らが近交係数と呼んでいるものは時間の経過とともに増加。新鮮な血液が家系に入ることはほとんどなく、深刻な健康上の問題が避けられなくなっていったのです。

領地拡大の結婚の末に生まれた悲劇

スペインハプスブルク家に生まれたカルロス2世はハプスブルク近親交配の頂点であったといわれています。彼の両親、オーストリアのフィリップ4世とマリアナには5人の子供がいたましたが、そのうち2人だけが成人するまで生きることができました

チャールズ2世は2度結婚しましたが、どちらのも子供ができるには至らず、後継者はついにうまれませんでした

神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ3世に焦点を合わせて、どの統治者が精神疾患を経験したかについての推論があります。1552年に生まれた彼は、スペインのマッド・ジョアンの孫であり、彼のうつ病は、彼の政治的権威をひどく妨げました。結果的に彼は弟に権力を譲らざるをえず、名ばかりの地位にとどまったのです華々しい繁栄の裏には、一族が「身体的・精神的に弱っていっていた」という悲しい事実が眠っていたのです。

まとめ

640年という長きにわたり、周囲の国々と婚姻関係を結んで網目状に領土を拡大してきた巨大な王朝、ハプスブルク家。終焉した王家が、いまだに多くの人の興味を引き付けるのは、ロマンに溢れる栄華や豪華さ、領地拡大の裏にある不都合な事情、人間の織りなす生々しいストーリーがあるからではないでしょうか。

同家の肖像画は多く描かれており、今も歴史の語種となっているのでした。

この記事を書いた人

世界史好きの英日翻訳者。

愛読書はスペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」。読み漁った文献は国内外のものをあわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

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