この華やかな王様がいなければ、ルーブル美術館にモナリザはなかった
そう言わしめたのは、フランス・ルネサンス期を代表する王フランソワ一世。この記事では、フランスに芸術を根付かせフランス宮廷の礎を築いた人物をご紹介したいとおもいます。
フランソワ1世とは
フランス・ルネサンスの花を咲かせた、ヴァロア朝 9代目のフランソワ1世。遊び人としても有名な彼ですが、当時「陽の沈まぬ王国」を目指し領土拡大に邁進していたスペインのカルロス1世に挑み、戦場でなんども死に掛けようともめげないという勇猛果敢な騎士でもありました。
惜しみない、芸術への富と貢献
即位してすぐイタリアに遠征しミラノを陥落したフランソワ1世ですが、フランスの芸術振興に貢献したことでも知られています。イタリア遠征の結果として「文化振興」のために様々なイタリア人芸術家を高額な報酬でフランスへと招き、自国には華やかな文化を根付かせていったのです。
有名なのは何といっても、レオナルド・ダ・ヴィンチとの親交でしょう。フランソワ1世はレオナルド・ダヴィンチを三顧の礼で迎え、館と年金により安穏な余生を保証しました。
その結果、生まれたのがあの『洗礼者ヨハネ』『モナリザ』『聖アンナと聖母子』。この3作品はダヴィンチがフランスで描き、生涯手元に残した作品でもあります。失意のレオナルド・ダヴィンチを招き、穏やかな余生を提供したことでも有名です。「レオナルドはフランソワ1世の腕の中で亡くなった」という噂がたつほど、晩年の結びつきは強かったとされています。
積年のライバル
フランソワ1世は、余勢をかって神聖ローマ皇帝の地位を狙ったこともありました。しかし相対するのは大銀行家フッガーの後ろ建てをもち、万事絶好調のハプスブルク家カルロス1世です。結局金銭面で敗北し、またイタリアを舞台に対ハプスブルク戦をつづけますが、勝ったり負けたりを繰り返すもののこちらもパヴィアで大敗。
フランソワ1世は、カルロス1世の捕虜にされてしまいました。30歳でまさか、屈辱の捕虜。「不平等条約」を呑まされ帰国したら何のもの、そんな約束など放棄して戦争をせっせと再開する見上げた根性。スペインとの戦に勝てはしなかったもののフランスの領土を守り、政治の安定期を迎えることができたのは、彼の踏ん張りのおかげともいえるでしょう。以後彼は着々と中央集権化を推し進め、絶対王政を強化していくのです。
絢爛たるフランス宮廷文化の礎
フランソワ1世は、フォンテーヌブロー宮殿を大改修し、内部装飾をイタリア人画家たちに任せました。城内には明るい愛欲が特徴の美女水浴図が多く描かれたのですが、その中のひとつが「ガブリエル・デストレとその妹」です。画中には、奥の部屋の暖炉の上に、裸の男性の下半身が見える絵も掛かっています。貴婦人の入浴図はこの派の画家たちが好んだテーマで、浮気ごころのシンボルとしてしばしば用いられてきました。
「恋と狩猟と戦争と生」を愛したというフランソワ一世。なんとそれまでは自邸や、修道院にひっそり隠れていた貴婦人を宮廷へと引っ張り出しました。王の城は美しい女性たちで陽気さと華麗さに満ち溢れ、恋の駆け引きうずめく魅惑の快楽と化したのでした。「愉しみ」を見出し、フランソワ1世は、フランスに魅惑の城を作り上げたのです。
英国王室とは真反対、自由なフランス宮廷
その頃イギリスでは6度も王妃をかえたヘンリー8世が幅をきかせていました。しかし彼の寵姫となったが最期、彼の気持ちが変わればよくて追放、悪くて処刑。女性からしてみれば、命が危ういイギリス王室より、惰性といえば惰性ですが、処女信仰もなければ姦淫への懲罰もなく、人妻が恋人や愛人を持っても批難されることなかったフランス宮廷のほうが、たとえ「王の愉しみ」であれど自由でよかったのかもしれません。
ちなみに同時代に、ヘンリー8世の2番目の妃アン・ブーリンもフランス宮廷に仕え、より洗練された女性になってイギリスへ戻ったという逸話ものこされています。
まとめ
フランソワ1世はこんな名言を残しています。
女はしばしば変わる。女を信ずる男は愚かである。
19世紀フランスを代表する作家の1人ヴィクトル・ユゴーは、1832年に戯曲『王は愉しむ』を発表しました。フランソワ1世の道化師トリブレが主人公で、トリブレの娘ブランシュが王に弄ばれたため王に復讐をしようとして起きる悲劇を描いた作品です。
フランソワ1世さえ翻弄する美女がいたといいますから、この時代のフランス宮廷は、「愉しみ」と「ドロドロ劇」渦巻く場所であり、清廉潔白を求めた英国とは真逆の立場にあったのかもしれません。何にしろ様々な芸術を求めて奔走したフランソワ1世。いまルーブル美術館に「モナ・リザ」があるのも彼のおかげだと考えると、彼が人類史に残した影響ははかりしれないものとも思えてくるのでした。
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