ドイツに生まれ「シシィ」の名で親しまれ愛された、絶世の美女エリザベート 。オーストリア皇帝フランツに見初められ結婚に至るも、宮廷のしきたりに馴染めず苦しんだ女性のひとりです。この記事ではまるで、お伽話のように運命に翻弄されたエリザベートの生い立ちをみていきたいとおもいます。
- 堅苦しい宮廷のしきたりに馴染めなかったエリザベート
- 姑に子供を取られ、エリザベートは悲しみの余りへ代償行為へ走っていく
- ウィーンから離れて暮らす日々が続き、最後は旅先で無政府主義者に殺されることとなった
誕生と幼少時代
父はバイエルン公の称号を持つバイエルン王国の貴族であり、由緒ある家に生まれたエリザベート。彼女は、現在ドイツ最大の都市となっているバイエルンで育ちました。
ダンディな父と美しい母、エリザベートは2人の間にうまれた、4人目の子供でした。彼女の類稀なる美しさはこの両親から引き継いだものなのかもしれません。
活発な少女
幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり、狩りに出掛けるなど活発な少女だったといわれています。
もちろん住民は、王家に連なる身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎し、エリザベートは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していたそうです。エリザベートは王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため、幼少期は自由奔放に人生を満喫していたのです。
自然を愛して
エリザベスは若い頃から「シシィ」という愛称で呼ばれ、自然を愛し、ミュンヘン南部のシュタルンベルク湖のほとりにある快適な家族の邸宅で夏を過ごしました。彼女の子供時代は、その時代と彼女の地位にしては珍しく、形式ばらなかったといいます。彼女の父親である公爵は音楽を愛し、特にリベラルな見解を持っていたため、それが子供たちにも影響を与えたといいます。
母ルドヴィカは子供が成長するにつれて、彼女らの結婚を考えるようになります。そして1848年、母は18歳でオーストリア皇帝になった、当時独身のフランツ・ヨーゼフに狙いを定めたのでした。
変わる運命
当時エリザベートは15歳と幼く、王妃になる可能性は低いと考えられていました。というわけで、王妃としての、優雅さ、敬虔さ、そして控えめさといった資質を備えた、長姉のヘレネがお見合い相手に選ばれたのです。話し合いを重ねてシシィの姉ヘレネは、1853年の婚約を目指して皇族が集ったバート・イシュルに招かれます。
しかしその相手は、姉のヘレーネではなく、彼女の見合いにおもしろ半分でついてきたその妹15歳のシシィでありました。周到に設定された顔合わせの席で、フランツ・ヨーゼフはたちまち恋に落ちたといいます。何に縛られることなく、自由にのびのびと振る舞う愛らしい彼女は、宮廷にがんじがらめになっている、几帳面で融通のきかないヨーゼフにとって魅力的に思えたことでしょう。フランツ・ヨーゼフは母ゾフィの反対を説き伏せて、エリザベートを皇妃として迎え入れたのでした。
姑との確執
フランツ・ヨーゼフと結婚し、オーストリア宮廷へ嫁いできたエリザベート。しかしバイエルンの田舎でのびのび自由に育った彼女にとって宮廷生活はとてもしんどいものでありました。そんなエリザベートですが、結婚の翌年に早くも長女が誕生します。しかし今度は子育てに際して、継母ゾフィとエリザベートはぶつかることになりました。
この未熟で若い嫁に子育ては無理でしょう
生まれた子は私が育てます
として、姑ゾフィは、エリザベートから子供を取り上げてしまったのです。
悲しい事故
間も無くして、エリザベートの元に次女が生まれます。
今度は姑に取られないよう立ち向かい、エリザベートは幼い娘を自分の部屋へと移しました。しかし幸せは続かず、1857年の春、ゾフィの反対を押し切り、エリザベートは無理やり2歳の娘をハンガリーへの長旅に連れ出すのですが、その子を (赤痢により) 病死させてしまいます。
ほら、言った通り。
あなたに子育ては無理だったでしょう
結果として生まれゆく子供はゾフィの手に渡り、エリザベートは悲しさのあまり、国外旅行、美容といった代償行為に熱中していくのでした。
美への執着
悲しみと比例するように、エリザベートは美貌を維持するために多くの時間を費やすようになっていきました。記録によると彼女は、
- 1日3時間、長い髪の手入れをし、
- 着付けの際、ウエストを19.5インチ (約50cm) まで縮めるのに約1時間かけた
といいます。年を取るにつれて皺が恐くなり、寝ている間に顔に生の子牛肉のスライスを巻き付けることさえあったそうです。
また食事を厳しく制限して、ハイキング、乗馬、重量挙げ、柔軟体操など、毎日何時間もの厳しい運動をしていました。こういった異常ともいえる美への執着は、現代の摂食障害の症状に似た不健康な強迫観念といったものだったのかもしれません。
ウィーンからの逃亡
エリザベートはウィーンの息苦しい雰囲気から逃れるため、医師のアドバイスを受けてポルトガルのマデイラ島に向かい、大西洋を見下ろす別荘に住みました。自然溢れる地で、彼女は詩を読み、歩き、周囲の自然に癒される生活を送ったのです。
エリザベートは、1861年にウィーンに戻りました。しかし継母との亀裂は変わらず、ウィーンで生活を再開するや否や、ソフィー大公妃との緊張が再び高まります。
エリザベートは公共の行事への出席を拒否し、身体的および神経的な病気を訴えました。そして医師の助言を受け、地中海の島コルフ島へと移動しました。翌年1862年、バイエルンの家族に会いに行った後、彼女は再びウィーンに戻るなど行き来する生活を続けていました。
心安らぐ場所
特にエリザベートが心安らぐ場所としたのは、ハンガリーでした。ここは当時、オーストリア帝国の一部だったのです。姑ゾフィーはマジャル人嫌いだったといいますが、エリザベートは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けたのでした。
その熱意は勉強が大嫌いだった彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどでした。王室では異例といわれるほど、病人や弱い人の立場に寄り添ったエリザベート。結果として、ハンガリーの自治権回復にも寄与するなど、政治的にも活躍しました。
エリザベートの最後
エリザベートの晩年における最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺でした。暗殺説もありましたが、後にルドルフの心中相手が自分の母宛に送った遺書が発見されています。その後エリザベートは死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした。
そして1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、彼女自身も、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに短剣のようなヤスリで心臓を刺されて、その生涯を閉じることになりました。愛する息子を失い、一時は死を望んでいたというエリザベート。夫フランツはエリザベートの死に深く悲しみましたが、一方で自殺ではなかったことを知り安心した、とも言われています。彼女を殺したイタリアの無政府主義者、ルイージ・ルッチェニは告白の中で、
自身は皇后に対して何もしておらず、ただ国王を殺したいと思っているだけだ
と述べたそうです。
まとめ
堅苦しい宮廷のしきたりに馴染めなかったエリザベート。姑に子供を取られ、エリザベートは悲しみの余りへ代償行為へ走っていきました。子供を亡くした失意の中、通りすがりのアナキストに心臓を刺され、その生涯を閉じることになったのでした。
エリザベートは地中海沿岸に埋葬されたいと願っていましたが、フランツ・ヨーゼフはその願いを却下し、代わりにウィーンのカプチン・クリプトに埋葬しました。
時に堂々と公務を投げ出しつつも、皇妃としての生涯をやり遂げたエリザベート。決して愛したことも理解したこともない街の中心にじっと横たわっている彼女は、運命に翻弄された人生を終え今なにを思うのでしょうか。彼女の活躍についてはこちら (【民衆から愛されたシシィ】病んでも平和を願った優しき皇后) に詳しく記載しております。自身が精神病に苦しんだからこそ、人の痛みがわかる優しき皇后の物語であります。
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